幼年期と治世の初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 08:59 UTC 版)
「アレクセイ (モスクワ大公)」の記事における「幼年期と治世の初期」の解説
アレクセイはツァーリのミハイル・ロマノフとエヴドキヤ・ストレシニョヴァの息子として、1629年3月29日にモスクワで生まれた。1645年7月12日に父ミハイルがなくなると、当時16歳のアレクセイはツァーリに即位した。彼はボヤールで西洋文化に開明的なボリス・モロゾフ(英語版)の教育を受けた。 モロゾフは平和外交を推進し、ポーランド・リトアニア共和国との和約を締結したほか、オスマン帝国とも争いを避けた。国内政策では外国人商人の特権を削ろうとしたほか、役に立たなく資金がかかるだけ官庁を1つ廃止した。1648年1月17日、モロゾフはアレクセイとイリヤ・ミロスラフスキー(英語版)の娘マリヤ・ミロスラフスカヤを結婚させ、自らも10日後にマリヤの妹アンナと結婚した。 モロゾフは民衆から17世紀の腐敗したボヤールであるとみなされ、魔術やウィッチクラフトの疑いもかけられた。1648年5月、モスクワの民衆は塩一揆(英語版)でモロゾフに対して反乱、アレクセイはモロゾフをキリロ=ベロゼルスキー修道院(英語版)に追放することを余儀なくされた。4か月後、モロゾフは秘密裏にモスクワへ帰還、権力を一部奪回した。
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