幼年期 - 陸軍将校時代
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「山中峯太郎」の記事における「幼年期 - 陸軍将校時代」の解説
大阪府で呉服商を営んでいた馬淵浅太郎(旧・彦根藩士)の次男として生まれる。幼少時に、陸軍一等軍医(大尉相当官)山中恒斎の婿養子となり、のちに恒斎の娘の「みゆき」を娶った。大阪偕行社附属小学校(現・追手門学院小学校)、天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て、1901年(明治33年)、大阪陸軍地方幼年学校(大幼)に入校。大幼を卒業して陸軍中央幼年学校本科(中幼本科)に進み、1904年(明治37年)に中幼本科(18期)を次席(総員265名)で卒業して恩賜の銀時計を拝受し、明治天皇に対し御前講演を行った。原隊となる近衛歩兵第3連隊(近歩三)での隊付勤務を経て、陸軍士官学校(18期)に進んだが、脚気を患って自宅療養を命じられ、大阪の山中家に戻った(養父の山中恒斎は、山中が小学校に入る前に現役を退いて大阪に戻り、医院を営んでいた)。 養父の医院は経営状態が思わしくなかった。中幼本科に在校中から、休日には東京・麹町の大橋図書館(現・三康図書館の前身)に通って読書にふけっていた山中は、苦しい家計の一助になればと、処女作となる小説『真澄大尉』を執筆し、大阪毎日新聞に持ち込んだところ、高く評価されて同紙の連載小説に採用された。『真澄大尉』は、主人公である真澄大尉がシベリアで3年間にわたって民間人に身をやつし、軍事探偵として挺身したことを描いたものであり、真澄大尉は、山中の後年の代表作『亜細亜の曙』などで同じく軍事探偵として活躍する本郷義昭少佐の原型といえる。 本来は陸士18期であった山中であるが、自宅療養のために陸士卒業が1期遅れ(延期生)、1907年(明治40年)5月に卒業(19期、12番/1,068名)、近衛歩兵第3連隊附。陸士19期は一般に「中学組のみで、陸幼組を含まない」とされるが、山中は陸幼組でありながら19期となったレアケース。陸士在校中に、清国からの留学生と交流を深めた。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。 東條英機(陸士17期、陸軍大将、内閣総理大臣、陸軍大臣、参謀総長)は山中と同じく原隊が近歩三であり、同じ時期に近歩三で隊附勤務をしており、晩年まで親しい仲であった。1941年(昭和16年)に東條が陸軍大臣に就任すると、高名な作家となっていた山中は東條の「私的顧問」の役割を引き受け、例えば1942年(昭和17年)に刊行された『東條首相声明録 一億の陣頭に立ちて』(東條の訓示や演説をまとめた書)は「山中峯太郎 編述」となっている。なお山中は東條より陸士の2期後輩であるが、陸大は山中が明治43年12月入校(25期相当)、東條が大正元年12月入校(27期)であり、山中の方が2年早く入校している。 1910年(明治43年)11月、陸軍歩兵中尉に進級。同年12月、陸軍大学校に入校(陸大25期相当)。陸大は陸士同期生の1割程度しか入校できない難関であり、何度目かの受験で中尉になってからようやく合格するのが当たり前であったが、山中は少尉で受験しての「一発合格」を果たした。山中は陸士19期(卒業者1,068名)で最初に陸大入校を果たし、かつ陸大25期の中で陸士19期は山中のみであった。 山中が陸大に入校した翌年の1911年(明治44年)に辛亥革命が起きた。1913年(大正2年)7月に、辛亥革命後に孫文から政権を奪った袁世凱の専制に反対する青年将校たち(その多くが、陸士で山中と交流を深めた清国からの留学生であった)によって第二革命が起きた。 旧知の中国青年将校らの動きを知った山中は、故意に陸大から退校させられるように振舞い、同年、退校処分となって近衛歩兵第三連隊附に戻った。 帝国陸軍において陸大卒業の履歴は進級・補職に大きく影響し、陸大卒業の履歴を持たずに陸軍中央三官衙(陸軍省・参謀本部・教育総監部)で勤務し、あるいは高級指揮官(総軍司令官、方面軍司令官、軍司令官、師団長など)となることは困難であった。 詳細は「陸軍大学校#陸大卒業者のその後」を参照 山中は陸大25期として1913年(大正2年)11月に陸大を卒業する予定であったが、半年あまりの在校期間を残して自ら陸大を去り、帝国陸軍での栄達を放棄する決断をした。これは、一日でも早く休職して中国に渡り、第二革命に参加して同志たる中国の青年将校たちを助けたい一心からであった。 1913年(大正2年)6月、山中は東京朝日新聞通信員となって上海に渡り、第二革命に身を投じた。同年7月に始まった第二革命は失敗に終わり、8月には終息した。山中は、日本に亡命する同志の中国青年将校らと共に日本に戻った(山中が帰国したのは同年9月)。 同年12月には再び上海に渡り、翌年の1914年(大正3年)2月に帰国して近衛歩兵第三連隊附となり、軽謹慎1週間の懲罰を受け、依願免官となって軍歴を閉じた。
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