ノガイ軍との戦いとは? わかりやすく解説

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ノガイ軍との戦い(テレク川の戦い)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 14:04 UTC 版)

シレムン (スニト部)」の記事における「ノガイ軍との戦い(テレク川戦い)」の解説

しかし、1259年モンケ・カーンが急死したとの報せが届くとフレグ征西軍を巡る情勢急変しフレグイラン一帯自立しフレグ・ウルス建国するとともになし崩し的ホラーサーン総督府アゼルバイジャン鎮戍府(=イラン方面タンマチ)を自らの傘下収めたこのような動きに対して自らの権益侵されることを危惧したジョチ・ウルス反発し、更にクリ、バラカン、トタルらがフレグによって処刑されるという事件を切っ掛けとして、フレグ軍とベルケ治めジョチ・ウルスとの間に戦端開かれることとなったベルケトタル親類でもあるノガイ先遣隊として派遣しノガイカスピ海西岸沿いに南下してフレグ勢力圏たるアゼルバイジャンのシルヴァーン地方進出してきた。これに対しフレグイラン中から軍を徴集するとともにシレムン及びサマガル・ノヤン、アバタイ・ノヤンらをノガイ軍の迎撃のため先に派遣した。最も早く到着したシレムン軍はノガイ軍の猛攻に一旦敗走したものの、後から追いついたアバタイ軍の助け得てノガイ軍を敗走させた。 その後フレグ長子アバカ率い軍勢到着しシレムンアバタイは「アバカ皇子父上の下にお戻り下さい」と説得したものの、アバカはこれに従わず前線に留まった。シレムンアバタイアバカ率い軍勢ノガイ軍を追撃してテレク川渡った所、テレク河畔にはノガイ軍が残した幕営残っており、フレグ軍はこれを接収し3日飲酒宴楽耽った油断していたフレグに対してノガイ軍は奇襲をかけたため、フレグ軍は敗走してしまい、更に退却中に凍結していたテレク川崩れ多数兵士溺死するという大敗北を喫してしまった。シレムンアバカといった首脳陣帰還できたものの、タブリーズ帰還したフレグ流石に意気消沈してしまったという。

※この「ノガイ軍との戦い(テレク川の戦い)」の解説は、「シレムン (スニト部)」の解説の一部です。
「ノガイ軍との戦い(テレク川の戦い)」を含む「シレムン (スニト部)」の記事については、「シレムン (スニト部)」の概要を参照ください。

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