ノガイ軍との戦い(テレク川の戦い)
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「シレムン (スニト部)」の記事における「ノガイ軍との戦い(テレク川の戦い)」の解説
しかし、1259年モンケ・カーンが急死したとの報せが届くとフレグの征西軍を巡る情勢は急変し、フレグはイラン一帯で自立しフレグ・ウルスを建国するとともに、なし崩し的にホラーサーン総督府、アゼルバイジャン鎮戍府(=イラン方面タンマチ)を自らの傘下に収めた。このような動きに対して自らの権益を侵されることを危惧したジョチ・ウルスは反発し、更にクリ、バラカン、トタルらがフレグによって処刑されるという事件を切っ掛けとして、フレグ軍とベルケの治めるジョチ・ウルスとの間に戦端が開かれることとなった。ベルケはトタルの親類でもあるノガイを先遣隊として派遣し、ノガイはカスピ海西岸沿いに南下してフレグの勢力圏たるアゼルバイジャンのシルヴァーン地方に進出してきた。これに対し、フレグはイラン中から軍を徴集するとともに、シレムン及びサマガル・ノヤン、アバタイ・ノヤンらをノガイ軍の迎撃のため先に派遣した。最も早く到着したシレムン軍はノガイ軍の猛攻に一旦敗走したものの、後から追いついたアバタイ軍の助けを得てノガイ軍を敗走させた。 その後、フレグの長子アバカ率いる軍勢が到着し、シレムンとアバタイは「アバカ皇子は父上の下にお戻り下さい」と説得したものの、アバカはこれに従わず前線に留まった。シレムン、アバタイ、アバカら率いる軍勢がノガイ軍を追撃してテレク川を渡った所、テレク河畔にはノガイ軍が残した幕営が残っており、フレグ軍はこれを接収して3日間飲酒と宴楽に耽った。油断していたフレグ軍に対してノガイ軍は奇襲をかけたため、フレグ軍は敗走してしまい、更に退却中に凍結していたテレク川が崩れ多数の兵士が溺死するという大敗北を喫してしまった。シレムン、アバカといった首脳陣は帰還できたものの、タブリーズに帰還したフレグは流石に意気消沈してしまったという。
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