トクタ・ハンによる再編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 13:53 UTC 版)
「バトゥ・ウルス」の記事における「トクタ・ハンによる再編」の解説
トダ・モンケの時代まではバトゥ時代のウルスの在り方がそのまま引き継がれていたが、バトゥ・ウルスにとって最初の大きな転機となったのが「右翼ウルス」に属するノガイの台頭と没落であった。ノガイはジョチの七男のボアルの子孫で、ジョチ家の中では傍流の出ながらフレグ・ウルスとの戦いで功績を挙げて台頭し、1280年には右翼を代表して左翼のコニチとともにトダ・モンケ・ハンの擁立に関わるほどの高い地位を得た。その後トダ・モンケがトレ・ブカらのクーデターによって廃されるとノガイはトレ・ブカを捕らえてモンケ・テムルの子のトクタを擁立し、トクタを傀儡とすることによってノガイはジョチ・ウルスの事実上の最高権力者となった。 しかし、トクタ・ハンはこのようなノガイの専権に不満を募らせ、ついに両者は1290年代後半より全面抗争に入った。当初はノガイが優勢であったが、捲土重来したトクタ・ハンは1300年にノガイとその息子達の内部対立に乗じてこれを破った。ノガイの死亡後、その子のチュケはトクタへの投降を勧める弟を殺してブルガリアに逃れ、トクタ・ハンは領主のいなくなったノガイの旧領を自らの諸子・諸弟に分配した。ノガイと同じく「右翼ウルス」に属するチンバイ家の王族もこの頃トクタによって処刑されており、この時に「右翼ウルス」は解体・再編され、「右翼=青帳」と「左翼=白帳」の2大勢力によって構成されるジョチ・ウルスのあり方が定まったと考えられている。トクタ・ハンの治世にジョチ・ウルスの在り方が大きく変貌したことは後世にも伝えられており『ムイーン史選』はトクタ・ハンの治世にジョチ・ウルスは「青帳」と「白帳」に分裂したと伝えている。 同じ頃、東方のオルダ・ウルスにおいてもクペレクがカイドゥと組んで当時の君主バヤンに叛乱を起こし、長年にわたって両者の間で抗争が続いた。最終的に、バヤンはトクタ・ハンの支援を受けることでクペレクを打倒することに成功したものの、それまで半独立的であったオルダ・ウルス当主の権威は弱まりバトゥ・ウルス君主に隷属するようになった。右翼・左翼ともに直接的支配下に入れたトクタ・ハンは安定した治世を築き、それはウズベク・ハンの治世に受け継がれた。おりしも、カイドゥ・ウルスの解体によってモンゴル帝国には「東西和合」の時代が訪れており、東西交易の活発化に伴ってこの頃のジョチ・ウルスは全盛期を迎えたと評される。
※この「トクタ・ハンによる再編」の解説は、「バトゥ・ウルス」の解説の一部です。
「トクタ・ハンによる再編」を含む「バトゥ・ウルス」の記事については、「バトゥ・ウルス」の概要を参照ください。
- トクタ・ハンによる再編のページへのリンク