トクトアの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/07 22:37 UTC 版)
1206年、クリルタイの散会後、チンギス・カン(テムジン)はタヤン・カンの位を襲名したその弟ブイルクに対して進軍し、テュルク人がウルグ・タグすなわち大山と呼ぶ山地の付近にあるショゴクの近くで、狩猟中のブイルクを奇襲した。ブイルクは殺され、その家族、家畜および全財産はチンギス・カンの手中に入った。彼の甥で、タヤン・カンの子であるグチュルクはメルキトの王トクトアとともに、イルティシュ河の流れる地方へ逃走した。 チンギス・カンは1208年の夏をそのユルトすなわち直轄地で過ごした。その秋、グチュルクとトクトアを討つためにイルティシュ河へ向かって進軍した。その途中、チンギス・カンはクドカ・ベキの指揮するオイラト族に遭遇したが、クドカ・ベキは抵抗する力なく、降伏の決心を定め、その軍隊を増強して、自らチンギス・カンの案内役をつとめた。グチュルクとトクトアはジャム河付近で攻撃を受けた。トクトアは戦死し、その弟とその子はウイグルの領土(天山ウイグル王国)へ逃走した。グチュルクもまた幸いにして身をもって免れ、ビシュバリクを経由してクチャ地区へ至り、そこからトルキスタンのグル・カンの朝廷(カラ・キタイ)へ赴いた。
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