六十年戦争(1754年-1814年)
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「ショーニー族」の記事における「六十年戦争(1754年-1814年)」の解説
1755年のモノンガヘラの戦いの後、多くのショーニーは、1758年のイーストン条約に署名するまで、フレンチ・インディアン戦争の初期にフランスと共に戦った。フランスが1763年に敗れた後は、多くのショーニーたちはイギリスに対するポンティアック戦争に参加し、翌年には敗れた。 ポンティアック戦争の間に発せられた1763年宣言は、東部のイギリス領地とアパラチア山脈の西にあるオハイオ・カントリーの間に境界線を引いた。しかし、1768年のスタンウィックス砦条約はこの境界線を西に拡張し、イギリスは現在のウエストバージニアとケンタッキーの領有を主張した。ショーニーはこの条約には合意しなかった。というのもこの条約はイギリス当局とイロコイ連邦の間で交渉されたもので、イロコイはショーニーと他のインディアンがその土地で狩猟をしていたにもかかわらず領有権を主張していた。 スタンウィックス砦条約の後、アングロ系アメリカ人たちはオハイオ川流域へと殺到し始めた。入植者とインディアンの間の暴力事件は激しさを増して、1774年のダンモアの戦争へと突入した。イギリスの外交官はこの紛争の間になんとかショーニーを孤立させた。イロコイとデラウェアは中立を保ち、一方でショーニーはわずかなミンゴの同盟とともにイギリス領バージニア植民地と対峙した。バージニア総督のダンモア卿は、オハイオ・カントリーへの二面攻撃による侵攻を開始した。ショーニー族酋長のコーンストークは一方の軍を攻撃したが、唯一の主要な戦闘であったポイントプレザントの戦いで敗れた。キャンプシャーロット条約でコーンストークとショーニーたちは1768年のスタンウィックス砦条約で設定されたオハイオ川の境界を承認することを強いられた。 多くの他のショーニーの指導者たちは、この境界の承認を拒否したが、1775年にアメリカ独立戦争が起こった時、数々のショーニーたちはイギリス側について戦争に参加し、アパラチア山脈の向こうに入植者を追放することを目指してイギリスを支援した。ショーニーたちは分裂した。コーンストークは中立のまま残る集団を率いて、一方で酋長ブラックフィッシュやブルー・ジャケットのような指揮官たちはイギリスの同盟として戦った。 合衆国とインディアン部族の同盟の間の北西インディアン戦争で、ショーニー族はマイアミ族と手を組んで非常に大きな軍団となった。1794年のフォールン・ティンバーズの戦いの後、 ほとんどのショーニーの団は1年後のグリーンヴィル条約に合意し、彼らの故郷の地の大部分は合衆国へと帰属した。 他の残りのショーニーの集団はこの条約を拒否して、ミズーリにいた彼らの兄弟姉妹に加わりケープジラード近くに定住した。1800年までに、Hathawekela、Kispokotha、Piquaの部族がミズーリへと移住した一方で、ChillicotheとMequachakeの部族だけがオハイオに残った。 1805年から、ショーニー族の少数派がテカムセと彼の兄弟テンスクワタワの汎部族運動に加わり、テカムセの戦争と1813年10月5日のテムズの戦いでのテカムセの死を引き起こした。これはアメリカの拡大からオハイオ・カントリーの地を守るショーニー・ネーションの最後の抵抗であった。
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