六十六部廻国供養塔
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中村三叉路近くの宇田川を望む休憩所から南東へ続く道を進んだところに供養塔があり、正面に「奉納 大乗妙典六十六部廻国供養」、側面に「相州鎌倉郡汲沢村 願主 浄蓮」、「天明三年卯年九月吉日」と刻まれている。六十六部とは、六部とも呼ばれ、近世まで66か国に分かれていた日本のすべての国を経巡り、各国で法華経を納めることにより功徳を得ようとする巡礼者を指す。鎌倉幕府成立時の有力者である源頼朝、北条時政、梶原景時の前世が六十六部廻国聖であったとする伝承が定着していたという。人々の移動の自由が制限されていた時代にあって、この種の巡礼者は「経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖であったり、諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊にもわたる納経帳を遺す廻国行者であったり、また鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う、そしてときに所持する金子ゆえに殺される六部であったり」と、様々な姿をとりつつ「民俗社会における異人・来訪者の代名詞」のような存在であったという。納経先は厳格に定められてはいなかったものの、相模国においては鎌倉の鶴岡八幡宮が有力であり、武蔵国では諸寺社が入り混じる中、府中の六所神社などがあった。供養塔が建てられる経緯としては、巡礼完遂、中途での死没、宿の提供、作善など様々なものがあった。汲沢で供養塔が建てられた天明期すなわち1780年代には、世界的な規模での寒冷化が観察され、フランス革命の一因になったともされる一方、日本では天明2年(1782年)、大飢饉が発生。翌天明3年(1783年)には岩木山、浅間山が大噴火をするに及び、状況はさらに深刻化する。浅間山は、旧暦で4月から7月初旬まで、太陽暦の5月9日から8月5日頃まで約90日間活動し(天明大噴火)、8月4日には関東中部で降灰のため昼も暗夜のようになったいう。このときの噴火活動が収束した直後にあたるのが、天明3年9月という当地の供養塔に刻まれた日付である。 口承文芸に現れた六部の例を考察し、「村の外部から特定の村人に宗教的力能を与えることができるのが、民俗社会における<六部>」であったと論じつつ、六部自身が抱いていた信仰内容と六部に接した村人が六部に関して抱いた信仰内容とが一致するものでもなく、そこには「二重構造と不整合」が存在し、また、だからこそ生まれる「ダイナミズムを理解」することの意義を指摘する論文がある。十返舎一九による文化7年(1810年)刊行の『滑稽江之嶋家土産二編中巻』には、鎌倉の長谷観音付近の茶屋に泊まった主人公二人が近所の湯屋に行った際、湯を汚す行為を行った人間として六部が登場する。
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六十六部廻国供養塔
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巡礼者に結縁したことを記念して建てられた供養塔で宝永8年(1711年)2月8日の銘を持つ。大阪市内にある約30基の同種の塔でもっとも古く大きい。平成17年度に大阪市指定文化財に指定された。
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