噴火活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:07 UTC 版)
現在の平成新山を形成した噴火活動は当初、1989年(平成元年)11月からの橘湾群発地震 に始まったとされていたが、その後の観測データの再検討により、実際は1968年頃より雲仙火山は活動期に入っていたことが判っている。最初の群発地震は1968年頃より始まり1975年まで継続し、1973年には眉山付近でも震度3を最高に有感地震が11回発生している。この活動の最終段階で普賢岳東側の板底(おしが谷)で大量の火山性ガスが噴出し、30本ほどの杉が被害を受けた。1975年には周囲に鳥獣の死骸が散見され、岩の割れ目からは高濃度の二酸化炭素が検出。この一帯は1792年の噴火のときにも火山性ガスが噴出しており、この岩場は毒石と呼ばれていた。1975年以降も低調ながら地震は散発的に発生しており、1979年6-9月には眉山東麓を震央とする最大震度5相当の強い揺れを筆頭に89回の有感度地震が発生している。島原温泉では溶存炭酸ガス濃度が1975年より急上昇し、30%も増えた場所もあった。1984年4月より橘湾で群発地震が相次ぐようになり、葉山南側付近を震央とするM5.7、震度5の地震が8月に起きている。この地震を契機に島原半島の隆起が観測され始めており、橘湾からのマグマ供給が始まったとされる。 1990年(平成2年)11月17日に山頂付近にある神社脇の2か所より噴煙が立ち上り噴火。この噴火は2つの噴火孔より熱水の吹き上げと雲煙を認めるのみであった。同年12月には小康状態になって道路の通行止めなども解除になり、そのまま終息するかと思われたが、1991年(平成3年)2月12日に再噴火。さらに4月3日、4月9日と噴火を拡大していった。5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生、さらに噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想された。5月20日には地獄跡火口から溶岩の噴出が確認。溶岩は粘性が高かったために流出せず火口周辺に溶岩ドームが形成された。溶岩ドームは桃状に成長しやがて自重によって4つに崩壊。その後も溶岩ドーム下の噴火穴からは絶え間なく溶岩が供給されたため、山頂から溶岩が垂れ下がる状態になり、形成された順番に第1-第13ローブと命名された。溶岩ドームの崩壊は、新しく供給されるマグマに押し出されたドームが斜面に崩落することにより発生し、破片が火山ガスとともに山体を時速100kmものスピードで流れ下る火砕流(メラピ型火砕流)と呼ばれる現象を引き起こした。噴火活動は途中一時的な休止を挟みつつ1995年(平成7年)3月頃まで継続した。火砕流が世界で初めて鮮明な映像として継続的に記録された噴火活動である(過去には、プレー山などの火砕流が写真としては多く記録されており、小規模なものの映像も撮影されている)。
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