マラーターとの泥沼の戦いと帝国軍の疲弊
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「アウラングゼーブ」の記事における「マラーターとの泥沼の戦いと帝国軍の疲弊」の解説
このような反乱が起きているにもかかわらず、アウラングゼーブはデカンで戦い続け、カルナータカ地方という広大な面積の地方を帝国に併合しようとした。南インドに逃げたマラーターにはズルフィカール・ハーンを差し向けて、1690年9月からマラーター王国の拠点シェンジを包囲させていた(シェンジ包囲戦)。 1698年1月、帝国軍は8年間包囲したシェンジを落とし、ラージャーラームは南インドからデカン地方のサーターラーへと拠点を移した。その後、アウラングゼーブはマラーターを追い、1699年12月にはサーターラーを包囲し、1700年4月にこの地を落とした(サーターラー包囲戦)。 この間、3月にマラーター王ラージャーラームが死亡し、その息子シヴァージー2世がマラーター王となった。アウラングゼーブはマラーターとの戦闘を片すことが出来ると期待したが、彼を擁する摂政であり母后のターラー・バーイーは有能な人物で、マラーターを率いて帝国軍から奪われた砦を次々に奪回した。だが、アウラングゼーブはジハード(聖戦)を宣して包囲戦の指揮を自ら取り、買収と武力で圧迫して次々と落し、取戻していった。彼はすべてのマラーターの城を奪取するつもりであった。 だが、アウラングゼーブが敵の城塞に集中しているのにマラーターは目をつけ、デカン地方のあらゆるところで襲撃をはじめ、このため1702年から1704年にかけて北インドおよびグジャラートからハイダラーバードに至る隊商路が途絶えてしまった。マラーター王国のあるデカン西部では、安全の保証を代償に定期的に保護料が徴収されていた。その後、マラーターはハーンデーシュ、マールワー、グジャラートにまで襲撃を繰り返すようになった。 その一方、この頃になるとムガル帝国とマラーター王国との間で講和の話が持ち上がってきた。マラーター側の指揮官が和平を持ち出したのに対し、アウラングゼーブもまた長年捕虜としてきたシャーフーを解放してマラーター王にすることを考えた。そのため、1703年から双方で和平交渉が何度か行われたものの、結果としてそれは実を結ばなかった。 アウラングゼーブのデカンにおける遠征が長引くにつれ、デカンに駐留する兵士の志気は徐々に低下していき、その戦費は莫大なものとなって財政は次第に圧迫されていった。財政の悪化はマンサブダール制の動揺させ、過度の地租徴収による。近藤治は「ムガル朝にとって最も深刻な問題は、皇帝親征のムガル大軍を以てしても、マラーター軍に壊滅的打撃を与えられることが出来ないことによる皇帝権の威信の低下であった。(略)だが、今やムガル朝高官たちのアウラングゼーブに対する信頼感さえも薄らいでいった」と主張している。 1681年以降、アウラングゼーブが帝都デリーに戻らずに治世の後半をデカン戦争に費やしたことによって、帝国の重心はアウランガーバードを中心としたデカンに移り、それから生み出される影響は大きかった。特に、17世紀末から18世紀初頭、アウラングゼーブはマラーターと激しい戦争を行い、帝国の統制と権威は北インドの及ばなくなった。帝国に仕える者はデカンと北インドに分けられ、北インドで仕える者はほとんど宮廷に出仕しなくなり、なかにはマラーターと手を結ぶものも現れた。アウラングゼーブが信頼していたウラマーもまた、徴税官と同じようにジズヤから得られた税を着服し、国庫に税が届かなくなった。行政機構は壊滅し、帝国の財政を担ってきた北インドは荒廃して悲惨な状況であり、財政は年を追うごとに悪化した。 また、17世紀を通して、イギリスはマドラス、ボンベイ、カルカッタを、フランスはポンディシェリー、シャンデルナゴル(チャンダンナガル)をそれぞれ獲得し、18世紀初頭になると両国はインドの植民活動に乗り出そうとしていた。1690年代にはアウラングゼーブはボンベイでイギリス国王の肖像を刻んだルピー硬貨の鋳造を止めれず、1702年になるとアウラングゼーブの臣下がマドラスで権力を行使できなくなっていた。
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