マラーターの台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 21:15 UTC 版)
「第三次パーニーパットの戦い」の記事における「マラーターの台頭」の解説
13世紀後半にデカンを中心に勃興した新興カースト集団であるマラーターは、17世紀後半以降はシヴァージーに率いられてムガル帝国の皇帝アウラングゼーブに対抗し、1674年にはマラーター王国を樹立した。 1681年以降、マラーター王国はムガル帝国との長期にわたる戦闘(デカン戦争)に耐え抜き、帝国軍がデカンから撤退したのち、18世紀初頭にはマラーター王国を中心にマラーター同盟が結成された。 その後、ムガル帝国は皇位継承戦争が度重なり、サイイド兄弟の宮廷における横暴、地方太守らが独立するようになり、衰退の道を歩むこととなった。一方、マラーター王国はペーシュワーと呼ばれる宰相が実権を握り、同盟の盟主を兼ねるようになり、宰相の地位は世襲されることとなった。 宰相バージー・ラーオの時代、マラーター同盟は北インドにまで進出し、1737年には帝国の首都デリーにまで迫った(デリーの戦い)。彼は中央インドから北インドに領土を広げる過程で、配下の武将(サルダール)らに貢納させる代わりに占領地を封土として支配させ、同盟を確立した。 バージー・ラーオの息子バーラージー・バージー・ラーオの時代には、その勢力はベンガル地方にまで進出し、シンディア家とホールカル家はムガル帝国の皇位継承にまで介入できるほどにまで成長していた。
※この「マラーターの台頭」の解説は、「第三次パーニーパットの戦い」の解説の一部です。
「マラーターの台頭」を含む「第三次パーニーパットの戦い」の記事については、「第三次パーニーパットの戦い」の概要を参照ください。
- マラーターの台頭のページへのリンク