デリーの戦い (1737年)とは? わかりやすく解説

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デリーの戦い (1737年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/05 05:35 UTC 版)

デリーの戦い
Battle of Delhi
1737年3月28日
場所 インドデリー
結果 マラーター王国の勝利
衝突した勢力
マラーター王国 ムガル帝国
指揮官
バージー・ラーオ アミール・ハーン
ムイーヌル・ムルク
戦力
85,000人 250,000人

デリーの戦い(デリーのたたかい、英語:Battle of Delhi)は、1737年3月28日インドデリーにおいて、ムガル帝国マラーター王国の軍勢との間で行われた戦い 。ここでは軍事的な才能に長けたバージー・ラーオが勝利をつかんだ。

戦闘に至る経緯

1730年代、マラーター王国宰相バージー・ラーオは長期にわたる遠征を行い、ムガル帝国マールワーといった中央インドなどに侵入していた[1]

1737年3月、バージー・ラーオはそこからさらに北上し、ムガル帝国の首都デリーに向けて進撃した[2]。ムガル帝国は諸国に援軍を要請したが間に合わず、単独での戦闘を強いられることとなった。

戦闘とその後の経過

こうして、3月28日に帝国軍とマラーター王国軍がデリー近郊で激突した。帝国軍は単独であったものの、それでもアミール・ハーンなどを主将に25万の軍勢を集めていた。

だが、バージー・ラーオの軍事的才能がここで遺憾なく発揮され、それは帝国軍を大いに打ち破った[3]アウラングゼーブの死後ちょうど30年目のこの出来事は、ムガル帝国の衰退とマラーターの台頭を象徴していた。

帝都デリーを守る軍勢が敗北したことで、マラーターはその近郊で略奪を開始した。ミール・ハサン・コーカという武将の一人が8000の兵でバージー・ラーオを討とうとしたが、これは壊滅的な打撃をうけ、ハサン・コーカも逆に負傷した[3]

デリーの市中は攻め入られる危機にさらされ、皇帝はデリー城に閉じこもっていたが、辛くも難を逃れることが出来た[3]。 帝国が要請していたニザーム王国など諸国の軍勢が集結しつつあるという報がバージー・ラーオのもとにもたらされたからある。このため、3月31日にバージー・ラーオは諸国の軍勢を迎え撃つため、すぐさま踵を返す形でデリーを離れた[3]

同年12月24日、バージー・ラーオ率いるマラーター王国軍はボーパールの地で連合軍を破り(ボーパールの戦い)、1738年1月7日にボーパール条約を締結し 、マールワーを割譲させた[1][3]

脚注

  1. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.215
  2. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.214
  3. ^ a b c d e Maratha Chronicles Peshwas (Part 2) Glory of the Peshwas

参考文献

関連項目




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