崩御後のムガル帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 02:46 UTC 版)
「アウラングゼーブ」の記事における「崩御後のムガル帝国」の解説
その後、5月に帝国軍はデカンからの全面撤退を決め、同時にムガル帝国の宮廷にいたマラーターの王子シャーフーを釈放した。シャーフーはマラーター王国の首都サーターラーに向けて進軍し、シヴァージー2世の母ターラー・バーイーが対決姿勢で応じたために内乱となったが、彼はバラモンであるバーラージー・ヴィシュヴァナートの助力により、翌年にマラーター王となった。 アウラングゼーブの崩御後、彼の予想通りに息子たちが帝位をめぐって争いはじめ、彼自身の統治、多数の民族・宗教を抱えた政情や帝国の財政難も影響して、帝国領はたちまち分裂、衰退していった。 のちに混乱に乗じて帝国を見切ったデカンのニザーム王国、アワド太守、ベンガル太守といった近隣地域が独立、マラーター王国を中心としたマラーター同盟が強勢となった。1737年にはその宰相バージー・ラーオ率いる軍勢によってデリーを攻撃された(デリーの戦い)。アウラングゼーブの没後ちょうど30年目に起きたこのことは、マラーターの台頭とムガル帝国の衰退をよくあらわしていた。 さらには、イランのアフシャール朝がデリーを略奪・破壊、アフガニスタンのドゥッラーニー朝も帝国領にたびたび侵入し、インドの植民地化を目指すイギリスなどの外国勢力も介入してくるなど、帝国は急激に崩壊していった。 こうして、アウラングゼーブの崩御100年後の19世紀初頭には、ムガル帝国は首都とその周辺しか支配していなかった。
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