崩御と遺詔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:44 UTC 版)
即位の翌年である咸安2年(372年)に早くも病に倒れ、53歳で死に臨んで桓温に皇位を禅譲しようと考えた。そして遺詔として「太子(司馬曜)が輔けるに足る人物なら輔佐してもらいたい。もしだめなら、温自ら位を取るがよい」とした(蜀漢の劉備が諸葛亮にした遺詔と同じである)。しかし侍中の王坦之がその詔を簡文帝の前で破ってしまい「天下は伝えられたもので、陛下がご勝手になさる事はできませぬ」と述べた。すると簡文帝は「運命が晋に味方するなら、その方が詔を破らずとも無事にすむであろうが、運命に見放されているならば、破ったとて何になろう」と述べた。そして謝安の奇策により、「諸葛武侯(諸葛亮)、王丞相(王導)の如くせよ」と改めて崩御した。 このような経緯から次の皇位をどうするかで意見は紛糾したが、謝安・王坦之・王彪之(王彬の子)らの尽力で簡文帝の六男で12歳の司馬曜(孝武帝)が承継した。
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