崩御とその後
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余は余の友人たちにたいして友人であった。乗馬者や射手として、他のすべてのものよりも優秀であることを余は証明した。余は狩猟者としても優れていることを示した。余はあらゆることをすることができた。 - ダレイオス1世の墳墓の碑文 ダレイオス1世は2度にわたる遠征の失敗に憤激し、より大規模な遠征軍を編成して親征することを決断した。しかしその準備の最中、エジプト(ムドラーヤ)で反乱が発生したため、ギリシアとエジプトのどちらへの遠征を優先すべきかが問題となった。ところが、紀元前486年8月にダレイオス1世は急死し、ギリシアへの遠征もエジプトの反乱鎮圧も後継者の手に委ねられることになった。 ダレイオス1世には後継者の候補として即位以前に結婚していたゴブリュアスの娘(名前不詳)との間に長子アルトバザネスを始めとする3人の息子がおり、キュロス2世の娘アトッサとの間にはクセルクセス1世(クシャヤールシャン1世)がいた。ヘロドトスは王位継承を巡る対立と、クセルクセス1世が後継者に定まる顛末を記録しているが、母アトッサの権勢が強かったため、クセルクセス1世が後継者になったのは既定のことであったと評している。ペルセポリスの浮彫には大きく描かれたダレイオス1世の像の傍らに太子クセルクセス1世が描かれており、考古学的にもクセルクセス1世が当初より正当な後継者として扱われていたのは明らかである。 ダレイオス1世は偉大なペルシアの王として後のギリシア人たちに大きな印象を残した。ヘロドトスはダレイオス1世の即位から崩御に至るまでの治世全期間を、様々な挿話を交えつつ記録に残している。また、アケメネス朝を滅ぼしたマケドニアの王アレクサンドロス3世(大王)は、キュロス2世とダレイオス1世と言う二人の創始者の業績に感嘆し、彼らの墳墓を訪れた際に、ダレイオス1世の墓に刻まれた碑文をギリシア語訳するように命じた。
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崩御とその後
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669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。 671年10月(天智天皇10年9月)、病に倒れる。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、天智天皇は近江大津宮で崩御されたと云われている(『扶桑略記』では天智天皇は山中で行方不明になったと記されており、これらには四国の山中での崩御説や天武天皇側による暗殺説などがある)。宝算46。 天智天皇は大友皇子の側近として蘇我赤兄・中臣金・蘇我果安・巨勢比等・紀大人を選んでいるが、これは息子かつ次期天皇候補の側近の数としてはかなり少ない。これは、乙巳の変以来、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまったからである。 天武元年(672年)6月26日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、その時には既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる。 天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかったとされる(『日本書紀』)。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝って即位して天武天皇に成る。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。 称徳天皇崩御後に、天智天皇の孫の白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇が誕生した。以降は天智系統が続く。 弟の大海人皇子から額田王を奪ったので自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている[要出典]。
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