崩御と後継者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:34 UTC 版)
ラダマは1828年7月27日に自分の邸宅(ニ・チャヌヴラ, ny Tranovola)で亡くなった。非常に若くして亡くなったことになるが、その原因についての説明は、史料によりまちまちであり、相互に矛盾する記述もある。何年にも及ぶ戦の日々がその対価を取ったのであろうとも言われ、また、彼が深酒をしがちであったことも原因とされる。亡くなる少し前、彼は進行したアルコール依存症の症状を呈し、健康が急速に悪化していった。公式にはラダマの死は深く酔っぱらったことが原因であったとされた。 ラダマはアンタナナリヴの王宮の、地上に置かれた石の墓の中に葬られた。伝統的な建築規範に沿って、王権の象徴である「チャノ・マシナ、trano masina(聖なる家)」が、その墓を覆うように建てられた。父のアンヂアナンプイニメリナがされたようにラダマも銀の棺桶に安置された。そしてラダマに続く未来の王権者もこのしきたりに沿うことになった。棺桶に入れられた副葬品は、深紅に染められた絹のランバメナ、輸入品のヨーロッパの貴顕の肖像画、何千ものコイン、80品目に及ぶ衣服、刀剣、宝石、金瓶、銀器などなど、マダガスカルのどんな墓のものよりも豪華であったと言われている。チャノ・マシナの壁の内側に置かれた調度品は、鏡、ベッド、数脚の椅子とテーブルがしつらえられた。テーブルの上には陶磁器の水差しが二つ置かれ、一つには水をもう一つにはラム酒が注がれた。この二つの水差しには、毎年、大晦日にメリナ王が行う沐浴の儀式「ファンヂュアナ、fandroana」の際に補充された。これらの品々のほとんどは、1995年に王宮が焼失した際に失われてしまった。 ラダマは後継者をはっきりと指名せずに亡くなった。しきたりによれば、ラダマの姉妹のうち最も年長の女性の息子、ラクトゥベ(Rakotobe)に王権を受け継ぐ者としての正統性があった。ラダマはラクトゥベの承継に肯定的な二人の信頼を置いていた廷臣の目の前で息を引き取ったが、二人は王の死を報告するのを数日間ためらっていた。それは王の対抗者の一人をそしる争いに巻き困ることを恐れてのことであった。その対抗者の家族はラダマが亡くなった場合に王権を承継する権利のある家族であった。この間に別の廷臣が王の死が事実であることを知った。この人物はアンヂアマンバ(Andriamamba)という名の高位の将であったが、アンヂアミハザ(Andriamihaja)、ライニズハリ(Rainijohary)、ラヴァルンツァラマ(Ravalontsalama)といった他の有力な将と共同して、ラダマの第1王妃であったラマヴ(Ramavo)が後継者となるよう支援した。彼女は最終的にラダマ1世から王権を受け継ぎ、女王ラナヴァルナ1世(Ranavalona I)となった。
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