マラーターの逆襲とアウラングゼーブの戦いとは? わかりやすく解説

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マラーターの逆襲とアウラングゼーブの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 19:07 UTC 版)

デカン戦争」の記事における「マラーターの逆襲とアウラングゼーブの戦い」の解説

ラージャーラームヴェールールなどの町を移動しながら逃げ1699年6月デカンサーターラー入ったアウラングゼーブ部下のスワループ・シングにシェンジ任せ南インドからデカン移動し12月サーターラー包囲し激し攻防戦の末、1700年4月にこの地を攻め落としたラージャーラーム包囲戦のさなか、3月死亡しており、後を継いでいたシヴァージー2世とその母ターラー・バーイー逃げた。だが、このターラー・バーイーという女性軍略長けた人物で、マラーターこのころから攻勢強めてゆき、数多くの砦を取り戻した1700年代マラーターデカンをはじめ、北インドマールワーグジャラート、ハーンデーシュなど帝国の諸州を略奪するようになった1702年から1704年には、マラーターのために、デカンハイダラーバードからグジャラートなど北インドへと至る道路途絶えることとなったデカン西部では、マラーターが安全を保証するかわりに保護料を徴収しはじめ、地方有力者また、ムガル帝国からマラーターへと主君代えはじめた帝国仕える者はデカン北インド分けられ北インド仕える者はデリー宮廷出仕しなくなり帝国無政府状態に陥り、なかにはマラーター手を結ぶものも現れるほどだった。 デカン戦争莫大な戦費多く賄ってきた、北インド東インド農民の生活は悲惨で、かねてから重税加えマラーター略奪をうけ、貧困にあえいで土地捨てようになった。そのうえ、戦争中帝国官吏は不正を重ねるようになり、地方徴税役人は平気で税金着服し帝国行政機構はすでに崩壊していた。 アウラングゼーブそのようなことも気にせずマラーター応戦すべく、デカン西部で自ら攻城戦指揮しマラーター城塞武力買収といった戦略で、次々と落していった。 こうしたなか、1705年5月アウラングゼーブ手足激痛感じて倒れ回復はしたものの、老齢アウラングゼーブが軍を率いるのはもはや無理であり、デリー帰還することにした。しかし、デリーへの帰還につくと、隊列マラーター攻撃を受けるようになり、昼夜問わない攻撃で、数十万人帝国軍の兵が撤退する中で殺され、軍は事実上崩壊した1706年1月31日アウラングゼーブデカンアフマドナガル到着し、この地にとどまることとなった。そして、マラーター勢力アフマドナガルにまでも襲撃をかけはじめ、5月には激し攻防戦が行われ、皇帝天幕までマラーター押し寄せ護衛兵首を切られるほどだった。

※この「マラーターの逆襲とアウラングゼーブの戦い」の解説は、「デカン戦争」の解説の一部です。
「マラーターの逆襲とアウラングゼーブの戦い」を含む「デカン戦争」の記事については、「デカン戦争」の概要を参照ください。

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