マラーターの脅威と失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 06:15 UTC 版)
「ハイダル・アリー」の記事における「マラーターの脅威と失脚」の解説
ハイダル・アリーの権威の伸長と王国の領土拡大を恐れていたのは、デカン地方のマラーター王国であった。 1757年4月、マラーター王国の軍勢がマイソール王国の首都シュリーランガパトナを包囲した。このとき、ハイダル・アリーは遠征中だったが、マイソール王クリシュナ・ラージャ2世に呼び出され、シュリーランガパトナへと赴いた。 また、1758年にハイダル・アリーのジャーギールであるバンガロールをマラーター軍が包囲したが、ハイダル・アリーはこれを退けている。 一方、1759年にマイソール王国内でもハイダル・アリーが実権を握ったことで、王国内でも財務大臣のカンデー・ラーオなどハイダル・アリーに反対する一派がこれを脅威と見て、マラーターの助力で対応しようとした。 そのため、1760年8月22日 、ハイダル・アリーはマラーターと結んだ反ハイダル・アリー派による政変にあい、失脚した。彼はシュリーランガパトナを追放され、息子のティプー・スルターンといった家族などを人質とされた。
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