マラーターへの勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/21 10:16 UTC 版)
「ナジーブ・ハーン」の記事における「マラーターへの勝利」の解説
1759年10月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはラホールのマラーター勢力を駆逐し、再びデリーへと進軍した。 1760年1月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはダッタージー・ラーオ・シンディアをデリー近郊で破り、そのままデリーへと入城した。その後、彼は北インドにとどまり、ナジーブ・ハーンと合流したのみならず、アワド太守のシュジャー・ウッダウラを自軍に取り込んだ。 ローヒラー族のナジーブ・ハーンはマラーターに辛酸を嘗めさせられ続けていたので、期たるべきマラーターとの戦いにおける意気込みはとても強かった。彼はこう言い残している。 「 「マラーター族はヒンドゥスターンの刺である。一つの努力により、この刺を永遠に我々の側から取り除こうではないか」 」 そして、1761年1月14日、アフマド・シャー・ドゥッラーニー、ナジーブ・ハーンら率いるアフガン軍は、パーニーパトの地でマラーター軍に壊滅的な打撃を与えた(第三次パーニーパトの戦い)。この戦いにおいて、ナジーブ・ハーンは40000の兵を提供していたばかりか、70門の大砲も連合軍に提供している。
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