マラーターとの講和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 03:05 UTC 版)
1714年1月6日、フサイン・アリー・ハーンはデリーを出発した。彼はラージャスターン地方のラージプートと講和したのち、任地たるデカン地方へと向かい、1715年9月6日にズルフィカール・ハーンの代理人でもあったダーウード・ハーン・パンニーをブルハーンプル近郊で殺害した。 フサイン・アリー・ハーンはマラーター王国と戦い続けたが、1718年7月に王国宰相バーラージー・ヴィシュヴァナートとムガル・マラーター間で次のような協定を結んだ。 ムガル帝国はシヴァージー時代の領土をマラーター王国の領土として認める。 ムガル帝国領のデカン6州に関して、チャウタ(諸税の4分の1を徴収する権利)およびサルデーシュムキー(諸税の4分の1を徴収する権利)をマラーターに認める。 マラーター王国はムガル帝国が必要としたとき、騎兵15,000兵を援軍として派遣する。 マラーター王国はデカンにおける略奪及び反乱に歯止めをかけ、毎年100万ルピーを支払う。
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