後悔と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:02 UTC 版)
アウラングゼーブはマラーターに応戦しつづけたが、1705年5月に手足に激痛を感じて倒れ、12日間公に姿を見せることはなかった。アウラングゼーブは回復したが、老齢による衰えは隠せずにデリーに帰還することにしたが、1706年1月31日からデカンのアフマドナガルにとどまった。 5月、アフマドナガルではマラーターとの間で激しい攻防戦が行われた。だが、マラーターはアフマドナガルを落とせず、そのため地方に展開した。9月になるとマラーターは一段と攻撃の手を強め、治安の悪化からアフマドナガルに入れる者はいなくなってしまった。アウラングゼーブはマラーターとの講和にも失敗し、「もはや自身に残されたのは神のみ」と語ったという。 アウラングゼーブはその晩年、自分の統治は誤りであると思うようになり、崩御後にかつて自身が争ったように息子らの間で皇位継承戦争が起こるのではないか心配するようになったという。そのためか、アウラングゼーブは崩御の2週間前、三男アーザムと五男カーム・バフシュを別々の任地に送った。フランシス・ロビンソンは「鎖を解かれた2匹のライオンを一緒にしておくわけにはいかなかった」と述べている。 1707年2月28日、アウラングゼーブは高熱に倒れたが、「イスラーム教の日に5回の祈りだけは続けさせてほしい」、と言い張ったという。彼がもはや信じることの出来るのは神だけであった。フランシス・ロビンソンは「アウラングゼーブの晩年は悲劇としか言いようのないものであったが、それは父帝シャー・ジャハーンの悲劇とは趣が異なっていた」としている。 崩御を迎える数日前、アウラングゼーブが息子アーザムに宛てた手紙には、その半世紀にわたる長い治世に対する後悔の念がつづられている。それはこのような内容であった。 「 「そなたとそなたのそばにいる者たちが平穏であるように。(余は)老いて(略)手足から力が消え去った。余はたった一人で(この世に)来て、よそ者としてたった一人で(あの世)に去る。余がこの世で過ごした日々は贖罪の日々を除いて、余に後悔の念しか残さなかった。(略)余は臨機応変に統治する才を欠いていたし、民の幸福を気にかけることもなかった。(余の)多大な犠牲を払って過ごした人生は、虚しく過ぎ去っていった。神はこの世におられるが、余の目では神の姿を見ることはできなかった。(略)帝国軍は混乱に陥っている。(略)余はこの世に何も残さず、罪の果実を携えて旅立つのだ。(略)それでも、神の恩寵と慈悲のおかげで強い希望は持っている。しかし、(過去の行動を恐れているので)自らの行動を振り返ることはできない。(略)さらば、さらば、さらば」 」 3月3日明朝、皇帝アウラングゼーブは朝の祈りをささげるために寝室を出たときに意識を失った。そしてそのまま回復することもなく、その日の夕方に崩御した。 翌日、その遺体はアウランガーバード近郊フルダーバードにあるスーフィー聖者ザイヌル・ハクの墓廟のそばに埋葬された。アウラングゼーブの墓は歴代皇帝の墓と違い、イスラーム教スンナ派の教えに従った屋根のない白大理石の質素な墓であり、彼が最後まで教義に従っていたことを示している。 アウラングゼーブの半世紀にわたる治世、ムガル帝国は南端部を除くインド全域とアフガニスタンにわたる広大な領域を領有し、その没年までに帝国の版図は最大となり、帝国の歴史に最後の輝きを与えた。しかし、その宗教不寛容政策は宗教対立を招き、強引な領土の拡大による莫大な戦費は財政を破綻させ、前期ムガル帝国の繁栄に終止符を打ち、帝国は衰退期である後期ムガル帝国へと向かっていった。
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