後征西将軍宮の比定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 02:41 UTC 版)
一般的に良成親王に比定されている後征西将軍宮だが、同時代史料には「将軍宮」と呼ばれているため、諱を明記した確実な史料は存在しない。 後征西将軍宮の比定をめぐって、近世には泰成親王(後村上天皇第四皇子、良成の兄)とする説がむしろ主流であり、井沢長秀(『菊池伝記』)を筆頭に八木田政名(『新撰事蹟通考』)・船曳鉄門・樋口真幸(『後征西大将軍考』)など、およそ九州の学者らはこの説を踏襲していた。これに対して良成親王とする説を強く主張したのが肥後熊本藩医の田中元勝であり、その著『征西大将軍宮譜』(『肥後文献叢書6』所収)によれば、泰成親王との説は親王が大宰帥であることから推測した妄説に過ぎず、『古本帝王系図』に「鎮西宮」として見える良成親王こそが将軍宮であろうとした。この説は菅政友の『南山皇胤譜』や藤田明の『征西将軍宮』において確定的に継承され、今日の通説化に至ったようである。 もっとも八代国治によれば、『古本帝王系図』は元禄頃の偽作で信頼に値しないといい、また中村直勝のように、良成を後村上の皇子とせず、懐良親王の嫡子と推定する見解もない訳ではないが、弘和4年(1384年)の『菊池武朝申状』に「将軍宮御事、被受正平之勅裁、為故大王御代官」とある文言から、将軍宮が後村上の皇子であることは認めてよかろう。ただ、その諱は前述のとおり史料がなく、かつ泰成以下の諸皇子においても九州に下向した形跡が確認できないため、消去法的に旧来の良成親王説を通説として採用しているのが現状である。
※この「後征西将軍宮の比定」の解説は、「良成親王」の解説の一部です。
「後征西将軍宮の比定」を含む「良成親王」の記事については、「良成親王」の概要を参照ください。
- 後征西将軍宮の比定のページへのリンク