泰成親王とは? わかりやすく解説

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泰成親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/11 10:23 UTC 版)

泰成親王
続柄 後村上天皇第四皇子

身位 親王東宮
出生 正平15年/延文5年(1360年)?
摂津国住吉行宮
死去 応永30年(1423年)以前
父親 後村上天皇
母親 嘉喜門院
役職 大宰帥
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泰成親王(やすなりしんのう)は、南北朝時代から室町時代にかけての南朝皇族後村上天皇第四皇子にして、長慶天皇後亀山天皇の弟と推定される。母は嘉喜門院か。官職は大宰帥。通説では後亀山天皇の東宮に比定されるが、これには近年異論も出されている。

経歴

正平15年/延文5年(1360年)頃、摂津住吉行宮で誕生する[1]南朝での詳細な経歴は不明だが、親王宣下を受け、弘和元年/永徳元年(1381年)まで(恐らく天授年間)に大宰帥に任じられた。このことから、かつては征西将軍懐良親王の跡を継承して九州南軍を指揮した「後征西将軍宮兵部卿親王)」と同一視されていたが[2]、泰成親王には九州へ下向した形跡が確認できないため、現在では否定されている。歌人としては、自邸で探題会を催した他、『新葉和歌集』に5首が入集する。

「この親王は皇子方の中で取分け、将来帝位に登られるべき方」と花山院長親が讃えたとおり[3]、早くから皇位継承の予定者と目されていたらしく、実際に泰成親王を東宮(皇太子)とする系図もいくつか伝存する[4]。ただし近年、小川剛生が指摘した『吉田家日次記』の記事によると、「南朝春宮」は帥宮と称された泰成親王の兄の惟成親王のことと考えられ[5]、系図とは齟齬を来たしている。何れにしても、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一後は入洛し、後亀山上皇を助けて嵯峨に閑居していたのだろう。応永19年(1412年)1月参賀のため幕府御所に臨んだ「大覚寺殿帥宮」[6]とは泰成親王の可能性がある。同30年(1423年)には既に故人であった。

脚注

  1. ^ 新葉和歌集』賀部・1400-1401詞書
  2. ^ 『南朝編年記略』・『系図纂要』など。詳細は良成親王#後征西将軍宮の比定の項目を参照。
  3. ^ 『新葉和歌集』賀部・1408 「この君と分きてぞあふぐ雲居まで生ひのぼるべき園の呉竹」
  4. ^ 吹上本『帝王系図』付紙、『南朝事跡抄』所収「古本帝王系図」「古物屋本帝王系図」、浅羽本『南方記』附載系図など
  5. ^ 『吉田家日次記』応永5年(1398年)9月29日条。小川剛生の指摘については、護聖院宮#惟成親王?の項目を参照。
  6. ^ 『山科家礼記』同年正月26日条

参考文献

  • 芝葛盛 「元中東宮考 ―長慶天皇に関連せる問題の一」(『史苑』第1巻第2号 立教大学、1928年11月、NCID AN0009972X
  • 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815
  • 田代圭一 「南朝皇胤についての一考察 ―『看聞日記』応永30年2月22日条をめぐって―」(『古典遺産』第54号 古典遺産の会、2004年9月、 NCID AN00353573



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