世明王とは? わかりやすく解説

世明王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/20 04:41 UTC 版)

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世明王

続柄 惟成親王王子
全名 世明(ときあき/よあき)
身位
出生 不明
死去 永享5年(1433年4月
子女 通蔵主金蔵主
父親 惟成親王
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世明王(ときあきおう/よあきおう、? - 永享5年(1433年4月)は、護聖院宮の当主。世明宮ともよばれる。

護聖院宮惟成親王の皇子とされ、後亀山天皇の甥にあたるとされる。息子には通蔵主金蔵主がいたとされる。

生涯

父に関してはかつて護聖院宮の当主に比定された説成親王(上野宮)とされていた。だが、近年の研究では、『看聞日記』における護聖院宮と上野宮とが明確に区別されていることから、両者は別人であることが森茂暁によって指摘され、さらに、『吉田家日次記(兼敦朝臣記)』応永5年(1398年9月29日条に「法皇・護聖院殿 法皇御舎弟、於南朝春宮・帥宮 同御舎弟」とあることを発見した小川剛生によって、「護聖院殿」は後亀山天皇の皇太弟にして泰成親王帥宮)の兄に当たる惟成親王であろうとの推測がなされた[1]。このため、世明王の父は惟成親王であると考えられている。

惟成親王は応永10年(1403年)頃以前に出家・隠棲したとみられるので、この頃には既に子の世明王が護聖院宮家を継いでいたと考えねばならない。

応永19年(1412年)正月新年参賀のために幕府御所へ赴き、同21年(1414年)4月の義満七回忌には玉川宮長慶天皇の皇子)とともに供物を、同27年(1420年)5月の義満十三回忌には後亀山法皇とともに供物を献じた。

同30年(1423年)2月には前円満院宮(円悟か)との確執から刃傷に及び、宮を殺害して自らも負傷するという一件が起こったが、これについて、村田正志は「当時における皇位継承に関する御意見の相違に基づくものであつたか」と憶測している。

正長2年(1429年)3月足利義教将軍宣下には使者阿野実治をしてこれを賀し、その際万里小路時房から当時出奔していた小倉宮の動向について尋ねられたが、実治は承知していないと答えた。

なお、同年8月と翌年7月の義教右大将拝賀には同じく実治をして太刀を進上している。永享2年(1430年)2月には小倉宮の帰洛が現実味を増して、その料所(領地)が問題となった際、護聖院宮が既にこれを領していたために替地がなかったという。

翌3年(1431年)11月には自ら将軍義教の許へ参向し、宮笥・馬1疋・太刀・折紙を進上した。

永享5年(1433年4月卒去

脚注

  1. ^ 小川剛生 「伏見殿をめぐる人々 ―『看聞日記』の人名考証―」(森正人編 『伏見宮文化圏の研究 ―学芸の享受と創造の場として―文部省科学研究費補助金研究成果報告書、2000年)

参考文献

  • 村田正志 「後亀山天皇の御事蹟」(『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年、ISBN 9784784203437。初出は1946年)
  • 森茂暁 『闇の歴史、後南朝 ―後醍醐流の抵抗と終焉』 角川書店〈角川選書〉、1997年、ISBN 9784047032842
  • 小川剛生 「伏見殿をめぐる人々 ―『看聞日記』の人名考証―」(森正人編 『伏見宮文化圏の研究 ―学芸の享受と創造の場として―文部省科学研究費補助金研究成果報告書、2000年、NCID BA46182759
  • 小風真理子 「山門使節と室町幕府 ―永享・嘉吉事件と護正院の台頭―」(『お茶の水史学』第44号 お茶の水女子大学、2000年9月、 NCID AN00033936
  • 田代圭一 「南朝皇胤についての一考察 ―『看聞日記』応永30年2月22日条をめぐって―」(『古典遺産』第54号 古典遺産の会、2004年9月、 NCID AN00353573

関連項目

看聞日記


世明王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:20 UTC 版)

護聖院宮」の記事における「世明王」の解説

初代親王の子。世明宮とも。程なくして出家した父の跡を継いで実質的に宮家当主として行動したのは、この世明王であったらしい。応永19年1412年正月新年参賀のために幕府御所へ赴き、同21年1414年4月義満七回忌には玉川宮長慶天皇皇子とともに供物を、同27年1420年5月義満十三回忌には後亀山法皇とともに供物献じた。同30年1423年2月には前円満院宮(円悟か)との確執から刃傷に及び、宮を殺害して自らも負傷するという一件起こったが、これについて、村田正志は「当時における皇位継承に関する御意見相違に基づくものであつたか」と憶測している。正長2年1429年3月足利義教将軍宣下には使者阿野実治をしてこれを賀しその際万里小路時房から当時出奔していた小倉宮動向について尋ねられたが、実治は承知していないと答えた。なお、同年8月翌年7月義教右大将拝賀には同じく実治をして太刀進上している。永享2年1430年2月には小倉宮帰洛現実味増して、その料所領地)が問題となった際、護聖院宮が既にこれを領していたために替地がなかったという。翌3年1431年11月には自ら将軍義教の許へ参向し、宮笥・馬1疋・太刀・折紙進上した。永享5年1433年4月卒去

※この「世明王」の解説は、「護聖院宮」の解説の一部です。
「世明王」を含む「護聖院宮」の記事については、「護聖院宮」の概要を参照ください。

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