後成説の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 00:53 UTC 版)
後成説の成立は一般に、「現代発生学の祖」と呼ばれるカスパー・ヴォルフ (1733-94) の論に遡るとされている。「自然誌」的思考の解体期を生きたヴォルフは1759年に『発生論』を著わし、その中でニワトリ卵において器官の原基が小さい球体として生じる様子を詳細に説明し、最初から器官の形が存在する訳ではないことをはじめて明確にするなど、後の後生説の根拠を与えることになった。 ヴォルフはまず植物について論じるなかで、葉や花が形成される場合、最初はそれらが未分化のかたちで生じ、次第に形態が作られてくるさまを描き出し、それらの原形が元々あるわけではないことを主張した。ここに植物が出るのは、当時は動物の発生と植物のそれを同一視する傾向があったからである。続けてヴォルフは、ニワトリの胚において、新しい器官が形成されるときには、まず透明なつぶつぶが現れるさまを描き出した(これはおそらく細胞のことであると思われる)。 また、彼は発生においてまず血管や心臓が現れることをあげ、もしも元から形があるのであれば、様々な器官が同時に現れるはずだが実際にはそうなっていないことを明らかにして前成説を否定している。彼は様々な器官の発生を子細に調べ、その過程で前腎を発見した(ほ乳類ではまず前腎が形成され、後にこれが退化してその後方に後腎ができ、これが成体の腎臓である)。このように個々の器官の発達についても、それが次第に形を変えるものであり、はじめから決まった形を持って現れるものではないことを述べて、あわせて後成説の証拠であるとした。 以上のヴォルフの論は前成説を完全に否定するに十分なものと思われるが、もともと前成説には宗教的な支持があったこともあり、また上記のように様々な混乱から前成説の裏付けが存在すると思われていたために、ドイツ国内の権威者もこれに反発したという。彼は国内での批判に半ば追われるように、帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーでの招きでドイツを去り、研究成果はロシアで出版された。かくして、この説が広く認められるのは次の世紀を待たなければならなかった。すなわち、彼の説が世に広まったのは1821年にメッケルが紹介してからであった。
※この「後成説の成立」の解説は、「後成説」の解説の一部です。
「後成説の成立」を含む「後成説」の記事については、「後成説」の概要を参照ください。
- 後成説の成立のページへのリンク