4度にわたる京都合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 09:33 UTC 版)
「南北朝時代 (日本)」の記事における「4度にわたる京都合戦」の解説
観応の擾乱後、南北は泥沼の戦いを続け、四度に渡る京都合戦を繰り広げたが、勝敗は付かず、お互いに疲弊するばかりだった。 直義が死んだ後、正平統一政権(旧南朝)は、足利方の影響を完全に払拭しようと、この機に乗じて京都へ進攻して、尊氏の嫡子の宰相中将足利義詮を逐い、京都を占拠して神器も接収した(第四次京都合戦(八幡の戦い))。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。 旧直義党を吸収した南朝は再起し、正平7年/文和元年(1352年)8月中旬から翌年3月末にかけて、南朝の楠木正儀(楠木正成の三男)・吉良満貞(旧直義党)・石塔頼房(旧直義党)らは、摂津の戦いで幕府の赤松光範・佐々木秀綱・佐々木高秀・土岐頼康・仁木義長らを破った。この勢いに乗じ、正平8年/文和2年(1353年)6月9日、南朝は第五次京都合戦で京都を奪回。しかし、幕府の大攻勢を受け、7月24日に京都を放棄、一月半という短期の支配に終わった。 正平9年/文和3年(1354年)、南朝の実質的指導者北畠親房が死去し、南朝はその頭脳を失う。しかし足利直冬が南朝に合流したことから再び武力を回復し、正平10年/文和4年(1355年)2月、直冬と楠木正儀は、第六次京都合戦(神南の戦い)で京都の一時的占拠に成功した。だが、東国から将軍足利尊氏が迫ったため、南朝は京都を再び放棄した。 正平13年/延文3年(1358年)4月、足利尊氏が死去すると新田義貞の遺児義宗や出羽に逃れていた北畠顕信らが再起を試みるも、組織的な蜂起には至らなかった。 室町幕府の新将軍・足利義詮は、武威を示すために南朝掃討の大攻勢に出て、楠木氏の本城である河内国赤坂城などを落とした。ところが、楠木正儀は戦闘を山岳戦に持ち込んで遠征を長引かせ、これによって幕府側は仁木義長・関東執事畠山国清・執事細川清氏ら有力武将が相次いで離反し、幕府の勢力は結局元に戻ってしまった。 正平16年/康安元年(1361年)、幕府内での抗争で失脚した細川清氏は南朝に帰順、楠木正儀らと共闘し、第七次京都合戦で一時は京都を占拠する。しかし、1月にも満たずに奪回され、南朝は劣勢を覆すことはできなかった。 足利義詮時代には大内弘世や山名時氏なども室町幕府に帰服した。
※この「4度にわたる京都合戦」の解説は、「南北朝時代 (日本)」の解説の一部です。
「4度にわたる京都合戦」を含む「南北朝時代 (日本)」の記事については、「南北朝時代 (日本)」の概要を参照ください。
- 4度にわたる京都合戦のページへのリンク