4度にわたる組閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 15:56 UTC 版)
「シャルル・ド・フレシネ」の記事における「4度にわたる組閣」の解説
1876年にガンベタの推薦を得て元老院議員となり、翌1877年12月ジュール・デュフォール(フランス語版、英語版)内閣で公共事業大臣(英語版)として入閣した。公共事業大臣として私鉄の国有化と新線建設、そして運河の建設を推進した。続くウィリアム・アンリ・ワディントン(フランス語版、英語版)内閣にも留任、ワディントンが首相を辞任するとその後任として首相と外務大臣に就任した。首相としてはパリ・コミューンに参加した人々に対する恩赦を決定したが、政教分離問題をめぐり後見人であるガンベタの支持を失い、内閣は1880年9月に総辞職した。1882年1日に第二次内閣を組閣、再び外務大臣を兼任した。ムハンマド・アリー朝エジプトで勃発したウラービー革命への介入をめぐり、イギリスによるアレクサンドリア砲撃への参加を拒否したことで、エジプトにおけるフランスの影響力を完全に失った。妥協案として砲撃の代わりにスエズ地峡の占領を提案したが、代議院での信任決議が417票対75票で否決されたため総辞職した。 1885年4月にアンリ・ブリッソン(フランス語版)内閣の外務大臣となり、1886年1月に第三次内閣を組閣したときも外務大臣に留任した。積極的な内政改革案を引っさげて三度政権についたフレシネであったが、その本領は植民地獲得など外交面でむしろ発揮された。議会戦術も巧みとされたが、自派の分裂を防げず1886年12月3日に内閣総辞職をした。1887年に二度組閣に失敗した後、同年の大統領選挙(フランス語版)に立候補するが、その日和見的な態度が急進派に嫌悪され、結局、同じく穏健共和派(英語版)に属するマリー・フランソワ・サディ・カルノーに敗れた。 1888年4月にシャルル・フロケ(英語版)内閣の陸軍大臣(英語版)に就任したが、文民による陸軍大臣就任は1848年のフランソワ・アラゴ以来だった。以降5年間、合計で5つの内閣(フロケ内閣、ピエール・ティラール(英語版)内閣、自身の第四次内閣、エミール・ルーベ内閣、アレクサンドル・リボ(英語版)内閣)の陸軍大臣を務め、兵役3年制、参謀本部の設立などの政策を推進した。1890年3月に第四次内閣を組閣、1892年2月まで続いたが、2年間の内閣期を通して宗教問題に悩まされ、内閣が倒れたのも宗教法案の採決で敗北したことが理由だった。パナマ運河疑獄で自身の潔白を完全に証明できなかったため陸軍大臣を辞任した。その後、1898年11月にシャルル・デュピュイ(英語版)内閣の陸軍大臣に就任したが、1899年5月6日に辞任した。
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