マリー・フランソワ・サディ・カルノーとは? わかりやすく解説

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マリー・フランソワ・サディ・カルノー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/26 08:28 UTC 版)

マリー・フランソワ・サディ・カルノー
Marie François Sadi Carnot


フランス共和国
第5代 大統領
任期 1887年12月3日1894年6月25日

出生 1837年8月11日
フランス王国リモージュ
死去 (1894-06-25) 1894年6月25日(56歳没)
フランス共和国リヨン
政党 穏健共和派
配偶者 セシール・デュポン=ワイト

マリー・フランソワ・サディ・カルノー(Marie François Sadi Carnot, 1837年8月11日 - 1894年6月25日)は、フランス政治家ニコラ・レオナール・サディ・カルノーの甥。第5代大統領第三共和政)。在職中に暗殺された。

政治家ラザール・イポリット・カルノーの息子として生まれた。エコール・ポリテクニーク国立土木学校で技術者教育を受け、官僚となった。1871年にセーヌ=アンフェリウール県(現セーヌ=マリティーム県)知事となり、まもなく国民議会議員となった。1880年には公共事業大臣となった。

1887年選挙フランス語版で、対立候補のジュール・フェリーに勝利して、大統領に選ばれた。就任早々、政界を震撼させたブーランジェ将軍事件を乗り切った。その後在職中にはフランス革命百年祭、パリ万国博1889年)などの祝賀行事があったが、1892年にはまた政治スキャンダル・パナマ事件が持ち上がり、アナーキストによるテロも激化した。

1894年6月24日リヨンで演説後にイタリア人アナーキスト、サンテ=ジェロニモ・カゼリオフランス語版英語版に刺され、翌6月25日に死亡した(サディ・カルノー暗殺事件フランス語版)。パリのパンテオンに埋葬されている。

外部リンク

先代
ジュール・グレヴィー
フランス共和国大統領
第三共和政
1887年 - 1894年
次代
ジャン・カジミール=ペリエ




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