4度の来日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:41 UTC 版)
「チャールズ・チャップリン」の記事における「4度の来日」の解説
1932年の初来日時に力士たちと記念写真を撮るチャップリン一行。左から清水川、シドニー、武蔵山、チャップリン、高野虎市、玉錦。 1961年に家族と鵜飼見物に訪れ、鵜匠と記念写真を撮るチャップリン(右端)。 チャップリンは小泉八雲の書物を読んで以来、日本に興味を持ち、生涯で4回来日した。初来日したのは1932年5月であるが、この時にチャップリンは犬養毅首相が暗殺された五・一五事件に遭遇した。首謀者の海軍青年将校は、当初チャップリンの暗殺も計画していた。来日前の4月に青年将校は、チャップリンの入京翌日に首相官邸で歓迎会が行われることを新聞報道で知り、その歓迎会を襲撃する計画を立てた。首謀者のひとりの古賀清志は、歓迎会を襲撃すれば「日米関係を困難にして人心の動揺をおこし、その後の革命進展を速やかにすることができる」と裁判で証言している。彼らは5月15日を決行日にしたが、チャップリンが滞在先のシンガポールで熱病に罹り、少なくとも5月16日以降に日本に到着することが判明したため、チャップリンを襲撃する計画は流れた。ところが、チャップリンは予定よりも早い5月14日に到着することになり、再び暗殺の標的に自ら飛び込む危険が生まれた。 5月14日、チャップリンはシドニー夫妻と神戸港に到着し、数万人の人々に出迎えられた。一行は東京に向かったが、東京駅では4万人もの群衆が押し寄せ、翌日に東京日日新聞はその混乱ぶりを「関東大震災当時の避難民の喧騒と怒号」のようだと報じた。チャップリンは宿泊先の帝国ホテルに向かう途中、同行した高野に頼まれて皇居に遥拝した。これは軍国主義が台頭していた日本で、チャップリンの身の安全を守るために高野が考えた演出だった。翌5月15日、チャップリンは当日に行われる首相官邸での歓迎会に出席することを承諾したが、突然予定を延期して両国国技館で相撲見物に出かけた。その夕方に犬養は首相官邸で暗殺され、チャップリンは事なきを得た。チャップリンは身の危険を感じて帰国することも考えたが、結局6月2日まで日本に滞在した。日本の伝統文化を好んだチャップリンは、歌舞伎や人形浄瑠璃などの古典芸能を鑑賞したり、上野の美術館で浮世絵を楽しんだりして過ごした。また、チャップリンは滞在中に何度も天ぷらを食し、一度に海老の天ぷらを30本も平らげたため、新聞では「天ぷら男」とあだ名された。チャップリンは初来日の感想について、自伝で「もちろん日本の思い出が、すべて怪事件と不安ばかりだったわけではない。むしろ全体としては、非常に楽しかったと言ってよい」と述べている。 1936年3月6日、チャップリンはゴダードとアジア旅行の途中、乗船したクーリッジ号が神戸港に停泊した一日半を利用して再来日した。その後、2ヶ月半ほどアジア諸国を旅行したあと、5月16日に三度目の来日を果たし、銀座や京都を観光したり、岐阜の鵜飼を見物したりして6日間滞在した。1961年7月にはウーナと息子のマイケルを連れて、最後の来日を果たした。美しい日本の姿を求めていたチャップリンは、高度経済成長で近代化された東京の風景に失望し、再び鵜飼を鑑賞した時も、その大きく変化した光景に落胆した。しかし、京都を訪れると、古き良き日本の風景が残っているのを見て安心し、宿泊先から雨が降る東山の景色を見て「浮世絵のようだ」と感嘆したり、龍安寺ではお茶を点てる女性の動きを見て「まるでバレエだ」と表現したりして楽しんだ。京都見物の途中に銭湯に急遽立ち寄った時には、居合わせた人々にビールを振舞った。
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