エリトリア州知事就任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 17:05 UTC 版)
「オレステ・バラティエリ」の記事における「エリトリア州知事就任まで」の解説
当時オーストリア帝国領だったチロル地方の都市トレントでイタリア系住民として生まれた。バラティエリの軍歴はガリバルディの千人隊(赤シャツ隊)に加わる事で始まり、1860年5月11日から1861年2月13日にかけて行われた両シチリア王国遠征で数々の戦闘を経験する。イタリア統一後は王国軍の士官に転じて、ラ・マルモラ元帥の配下として普墺戦争に従軍、その後も順調に階級を上げ、1891年に陸軍大将に昇格した。当時、エチオピアとの戦いでエリトリアを獲得していたイタリアは、戦後統治を行う駐屯軍司令官にバラティエリを任命した。翌年、エリトリア州が成立し、バラティエリは知事を兼任した。 1893年から1895年までの2年間、現地司令官として周辺国や欧州植民地に侵略していたスーダンとの戦争に没頭した。1894年7月17日、バラティエリはマフディーの乱を起こしたムハンマド・アフマドをカッサラの戦いで打ち破り、スーダン兵のほとんどは戦死するか捕虜にされた。
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