第一次オリックス時代とは? わかりやすく解説

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第一次オリックス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:03 UTC 版)

平野佳寿」の記事における「第一次オリックス時代」の解説

2006年には、3月25日に、西武ライオンズとの開幕カード第2戦(インボイスSEIBUドーム8回裏救援投手として一軍公式戦デビュー同月30日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルキャストスタジアム宮城)で公式戦先発・初勝利を記録し4月6日の対千葉ロッテマリーンズ戦(大阪ドーム)では、NPB12球団新人投手による完封勝利一番乗り達成した。さらに、前半戦先発で6勝を挙げたことを背景に、オールスターゲームにもパシフィック・リーグパ・リーグ)の監督推薦選手として出場した一軍公式戦全体では、松坂大輔西武)に次ぐリーグ2位の10完投、4完封記録。しかし、後半戦では1勝しか挙げられず、7勝11敗に終わった2007年には、先発投手として一軍公式戦27試合登板し、2完封勝利を含む8勝を挙げた防御率前年の3.81から3.72に改善させる一方でリーグ2位の18被本塁打やリーグワーストの13敗を記録した2008年には、公式戦開幕直前に右肘痛発症。後の検査遊離軟骨(骨の断片が肘に入っている状態)であることが判明したため、3月27日遊離軟骨除去手術受けたその影響シーズン大半リハビリ充てたため、一軍での登板機会はなかった。 2009年には、一軍開幕ローテーション復帰先発公式戦1試合登板したが、後に逆流性食道炎発症したことから、4月11日出場選手登録抹消された。5月24日一軍昇格し同日読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)に先発。6回1失点という内容で、一軍公式戦では2007年9月30日の対西武戦京セラドーム大阪以来602日ぶりの勝利を挙げた次に先発登板した5月31日の対横浜ベイスターズ戦では、2007年8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦(いずれもスカイマークスタジアム以来662日ぶりの完封勝利記録。しかし、一軍公式戦全体では3勝12敗、防御率4.72に終わった2010年には、一軍監督就任した岡田彰布方針で、先発から中継ぎ転向詳細後述)。一軍公式戦63試合登板防御率1.67、39ホールドポイントという好成績を残すとともにパ・リーグ救援投手では最も多い101三振奪ったまた、パ・リーグ監督推薦選手として、オールスターゲーム4年ぶりに出場した2011年にはパ・リーグ投手で最も多い72試合登板前年とほぼ同じ投球回数(83.2回)で99三振奪いセットアッパーとして43ホールド49ホールドポイントいずれもリーグ新記録)を挙げ最優秀中継ぎ投手タイトル獲得パ・リーグ特別表彰受賞したまた、オールスターゲームにも、パ・リーグ監督推薦選手として2年連続出場したシーズン終了後12月に、2009年頃から交際していたゴルフ場勤務女性と結婚2012年には、シーズン開幕前の3月10日東京ドーム催され東日本大震災復興支援ベースボールマッチで、プロ入り初め日本代表選出され、8回表に登板しチャイニーズタイペイ打線相手に、1イニングを無失点抑えたシーズンではパ・リーグ3位70試合登板チーム2位の7勝、防御率2.15を挙げたシーズン終盤クローザー転向し9セーブ記録また、投球回数79.2回で80三振奪ったことから、3年連続投球回数を上回る奪三振数を記録した2013年には、阪神から平野恵一復帰したことに伴って平野恵一現役引退する2015年まで平野佳」の表記を再び使用したシーズンでは、クローザーとして一軍公式戦60試合登板。2勝5敗で自身4シーズンぶりの負け越し至ったものの、パ・リーグ2位31セーブ記録したほか、9ホールド挙げた2014年には、一軍公式戦62試合登板シーズン40セーブパ・リーグ新記録当時)を樹立。1勝6敗ながら、最多セーブタイトル初め獲得した。なお、シーズン中国内FA権資格要件満たしたが、シーズン終了後球団との間で3年契約結んだ2015年には、故障によって実戦登板しなかった2008年除いてプロ入り初めての一軍公式戦未勝利シーズン終了シーズン中には、一軍公式戦救援失敗相次いだ影響で、中継ぎへの再転向や二軍調整経験結局一軍公式戦では33試合登板で、3敗12セーブ10ホールド防御率4.06に留まった。 2016年には、球団クローザー候補としてエリック・コーディエ獲得したことから、コーディエにつなぐセットアッパーとして、一軍公式戦開幕迎えた。しかし、コーディエに救援失敗相次いだことを背景に、5月からクローザー復帰6月18日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、前日12回裏の比嘉幹貴続いて、9回裏に鈴木誠也からサヨナラ本塁打浴びた。それでも、7月から2か月間の登板試合で無失点続けた結果通算58試合登板リーグ2位の31セーブ防御率1点台(1.92)でシーズン終えた2017年には、春季キャンプ前の1月24日に、第4回ワールド・ベースボール・クラシックWBC)の日本代表選出された。投手では最後選出であったが、同大会では秋吉亮並んでチーム最多の6試合登板し通算投球回数(5回1/3)を上回る7三振奪ったシーズンでは一軍公式戦開幕からクローザー起用されたが、7月上旬から中旬までの登板試合3度サヨナラ負け経験7月21日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(Koboパーク宮城)で3度目サヨナラ負け喫したことを機に平野自身再調整を希望したため、翌22日付で出場選手登録抹消された。8月10日から一軍復帰すると、同日の対西武戦京セラドーム9回表救援登板で、2年連続自身4度目一軍公式戦シーズン20セーブ達成。さらに、8月27日メットライフドーム催された同カードシーズン23個目のセーブ挙げたことによって、NPB史上13人目一軍公式戦通算150セーブ達成した一軍公式戦全体では、前年続いて58試合登板。3勝7敗と大きく負け越しながら、セーブ数を29まで伸ばしてシーズン終えた2017年シーズンオリックスとの3年契約満了したため、シーズン終了後には、11月7日付で海外FA権行使NPB申請したMLB球団への移籍視野入れた行使で、申請前には、イチローなどの代理人務めジョン・ボッグス契約オリックス球団FA権行使後の残留認めていることから、MLB球団との契約へ至らなかった場合に、オリックスとの間で複数年契約を再び結ぶ意向示していた。しかし実際には、WBC大会で投球内容対す高い評価などを背景に、MLB複数球団から獲得打診された。

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第一次オリックス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 21:05 UTC 版)

谷佳知」の記事における「第一次オリックス時代」の解説

1997年は、開幕一軍入りこそ果たせなかったもののシーズン序盤登録され5月11日の対近鉄バファローズ戦で8番・中堅手としてスタメン起用されプロ入り初出場を果たす。5月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦でプロヒットを、8月1日の対近鉄戦でプロ本塁打記録した規定打席到達はならなかったが、ルーキーながらシーズン101試合出場した1998年132試合出場し規定打席にも到達打率.284、10本塁打記録しプロ2年目ながらセンターレギュラー勝ち取った1999年134試合出場リーグ5位となる打率.291を記録するなどし、初のベストナインにも選出された。また、前年1盗塁ながら同年24盗塁記録盗塁死はわずか2で高い成功率収めたこの年一塁手として出場することも多かった2000年134試合出場打率本塁打ともに前年より成績を落とすが、自己最多73打点記録前年より成功率下げた23盗塁記録した前年引き続き、度々一塁手として起用された。 2001年136試合出場プロ入り初の打率3割(.325、リーグ5位)を記録し打点本塁打盗塁いずれも自己最高を記録したまた、シーズン通して52本の二塁打放ち日本記録樹立。初のゴールデングラブ賞受賞した2002年138試合出場1998年からのレギュラー定着以降最少の5本塁打終わったが、前年上回る打率.326(リーグ4位)を記録自己最多41盗塁記録し松井稼頭央との競り合い制し、初の盗塁王獲得盗塁成功率盗塁王では2015年シーズン終了時点歴代1位の.911を記録した2003年は、シドニー五輪柔道金メダリスト田村亮子結婚シーズンでは137試合出場し9月には自身初の月間MVP受賞したまた、シーズン通して189安打放ち最多安打タイトル獲得2004年近鉄バファローズとの合併したことによりブルーウェーブでの最後打撃タイトル選手となった)し、パ・リーグの右打者として安打記録更新リーグ2位となる打率.350を記録し本塁打自己最多21本を放つ好成績上げる。外野守備では、自己最多補殺二桁失策同時に記録した2004年中堅手ポジション福岡ダイエーホークスからFA移籍してきた村松有人譲り守備負担少な左翼手コンバートする。アテネオリンピック野球日本代表選ばれ銅メダル獲得するも、最後打者となった準決勝戦一塁駆け抜けた際に転倒し右足負傷した残りシーズンはほとんど試合出場できなかったが、規定打席には到達4年連続打率3割を達成する2004年末のオリックス・ブルーウェーブ大阪近鉄バファローズ合併に伴う新球団東北楽天ゴールデンイーグルスとの分配ドラフト経て引き続きオリックス契約することが決まった2005年打順は主に1番と3番守備位置センター起用される。しかし腰の怪我影響もあり、規定打席には到達した111試合出場とどまり打率規定打席到達の中では自己ワーストの.248で2000年以来5年ぶりに3割に届かず盗塁においても盗塁数より盗塁死のほうが上回った12月31日には長男誕生した2006年は肘の故障などもあり、規定打席には到達した118試合出場とどまり打率.267、6本塁打30打点終わった。特に打点盗塁プロ入り最少であった同年11月7日鴨志田貴司長田昌浩との交換トレード読売ジャイアンツ移籍背番号仁志敏久着用していた8に決まった推定年俸前年の2億8,000万円から1億5,000万円へ。1億3,000万円大幅ダウンとなった

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第一次オリックス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 16:35 UTC 版)

フランシスコ・カラバイヨ」の記事における「第一次オリックス時代」の解説

同年7月9日オリックス・バファローズ獲得発表7月12日支配下登録された。BCリーグから外国人選手NPB移籍するのは史上初。入団後7月19日一軍登録され、同日の対楽天戦で代打途中出場すると、第2打席に初安打となるBCリーグ出身選手NPB本塁打をレフトスタンドへ放ったその後一軍出場機会得て随所長打力発揮した最後9月25日ロッテ戦での試合中スイングした際に、左手首を骨折して戦線離脱したが、125打席46三振打率.257と粗さ見せつつも、7本塁打18打点まずまずの成績残した8月21日ロッテ戦では満塁本塁打9月15日西武戦では1試合2本塁打記録していた。 翌2011年キャンプ終盤にまたも左手の手術を受け今季絶望思われたが、7月12日ウエスタン・リーグ実戦復帰するその日阪神戦3ラン放つなど復調見せ3日後の7月16日一軍昇格する不振T-岡田に代わって4番抜擢されるも打撃精彩欠き一軍での出場は僅か4試合とどまり10月24日球団から戦力外通告受けた

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