第一次オリックス時代
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2006年には、3月25日に、西武ライオンズとの開幕カード第2戦(インボイスSEIBUドーム)8回裏に救援投手として一軍公式戦にデビュー。同月30日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルキャストスタジアム宮城)で公式戦初先発・初勝利を記録し、4月6日の対千葉ロッテマリーンズ戦(大阪ドーム)では、NPB全12球団の新人投手による完封勝利一番乗りを達成した。さらに、前半戦に先発で6勝を挙げたことを背景に、オールスターゲームにもパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の監督推薦選手として出場した。一軍公式戦全体では、松坂大輔(西武)に次ぐリーグ2位の10完投、4完封を記録。しかし、後半戦では1勝しか挙げられず、7勝11敗に終わった。 2007年には、先発投手として一軍公式戦27試合に登板し、2完封勝利を含む8勝を挙げた。防御率も前年の3.81から3.72に改善させる一方で、リーグ2位の18被本塁打やリーグワーストの13敗を記録した。 2008年には、公式戦の開幕直前に右肘痛を発症。後の検査で遊離軟骨(骨の断片が肘に入っている状態)であることが判明したため、3月27日に遊離軟骨の除去手術を受けた。その影響でシーズンの大半をリハビリに充てたため、一軍での登板の機会はなかった。 2009年には、一軍の開幕ローテーションへ復帰。先発で公式戦1試合に登板したが、後に逆流性食道炎を発症したことから、4月11日に出場選手登録を抹消された。5月24日に一軍に昇格し同日の読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)に先発。6回1失点という内容で、一軍公式戦では2007年9月30日の対西武戦(京セラドーム大阪)以来602日ぶりの勝利を挙げた。次に先発で登板した5月31日の対横浜ベイスターズ戦では、2007年8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦(いずれもスカイマークスタジアム)以来662日ぶりの完封勝利を記録。しかし、一軍公式戦全体では3勝12敗、防御率4.72に終わった。 2010年には、一軍監督へ就任した岡田彰布の方針で、先発から中継ぎに転向(詳細後述)。一軍公式戦63試合の登板で防御率1.67、39ホールドポイントという好成績を残すとともに、パ・リーグの救援投手では最も多い101三振を奪った。また、パ・リーグの監督推薦選手として、オールスターゲームへ4年ぶりに出場した。 2011年にはパ・リーグの投手で最も多い72試合に登板。前年とほぼ同じ投球回数(83.2回)で99三振を奪い、セットアッパーとして43ホールド・49ホールドポイント(いずれもリーグ新記録)を挙げ、最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。パ・リーグの特別表彰も受賞した。また、オールスターゲームにも、パ・リーグの監督推薦選手として2年連続で出場した。シーズン終了後の12月に、2009年頃から交際していたゴルフ場勤務の女性と結婚。 2012年には、シーズン開幕前の3月10日に東京ドームで催された東日本大震災復興支援ベースボールマッチで、プロ入り後初めて日本代表に選出され、8回表に登板しチャイニーズタイペイ打線を相手に、1イニングを無失点に抑えた。シーズンではパ・リーグ3位の70試合に登板。チーム2位の7勝、防御率2.15を挙げた。シーズン終盤にクローザーへ転向し9セーブを記録。また、投球回数79.2回で80三振を奪ったことから、3年連続で投球回数を上回る奪三振数を記録した。 2013年には、阪神から平野恵一が復帰したことに伴って、平野恵一が現役を引退する2015年まで「平野佳」の表記を再び使用した。シーズンでは、クローザーとして一軍公式戦60試合に登板。2勝5敗で自身4シーズンぶりの負け越しに至ったものの、パ・リーグ2位の31セーブを記録したほか、9ホールドを挙げた。 2014年には、一軍公式戦62試合に登板。シーズン40セーブのパ・リーグ新記録(当時)を樹立。1勝6敗ながら、最多セーブのタイトルを初めて獲得した。なお、シーズン中に国内FA権の資格要件を満たしたが、シーズン終了後に球団との間で3年契約を結んだ。 2015年には、故障によって実戦に登板しなかった2008年を除いて、プロ入り後初めての一軍公式戦未勝利でシーズンを終了。シーズン中には、一軍公式戦で救援失敗が相次いだ影響で、中継ぎへの再転向や二軍調整も経験。結局、一軍公式戦では33試合の登板で、3敗12セーブ10ホールド、防御率4.06に留まった。 2016年には、球団がクローザー候補としてエリック・コーディエを獲得したことから、コーディエにつなぐセットアッパーとして、一軍公式戦の開幕を迎えた。しかし、コーディエに救援の失敗が相次いだことを背景に、5月からクローザーへ復帰。6月18日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、前日12回裏の比嘉幹貴に続いて、9回裏に鈴木誠也からサヨナラ本塁打を浴びた。それでも、7月から2か月間の登板試合で無失点を続けた結果、通算58試合の登板でリーグ2位の31セーブと防御率1点台(1.92)でシーズンを終えた。 2017年には、春季キャンプ前の1月24日に、第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表へ選出された。投手では最後の選出であったが、同大会では秋吉亮と並んでチーム最多の6試合に登板し、通算投球回数(5回1/3)を上回る7三振を奪った。シーズンでは一軍公式戦の開幕からクローザーに起用されたが、7月上旬から中旬までの登板試合で3度のサヨナラ負けを経験。7月21日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(Koboパーク宮城)で3度目のサヨナラ負けを喫したことを機に、平野自身が再調整を希望したため、翌22日付で出場選手登録を抹消された。8月10日から一軍に復帰すると、同日の対西武戦(京セラドーム)9回表の救援登板で、2年連続・自身4度目の一軍公式戦シーズン20セーブを達成。さらに、8月27日にメットライフドームで催された同カードでシーズン23個目のセーブを挙げたことによって、NPB史上13人目の一軍公式戦通算150セーブを達成した。一軍公式戦全体では、前年に続いて58試合へ登板。3勝7敗と大きく負け越しながら、セーブ数を29まで伸ばしてシーズンを終えた。 2017年シーズンでオリックスとの3年契約が満了したため、シーズン終了後には、11月7日付で海外FA権の行使をNPBに申請した。MLB球団への移籍を視野に入れた行使で、申請の前には、イチローなどの代理人を務めるジョン・ボッグスと契約。オリックス球団がFA権行使後の残留を認めていることから、MLB球団との契約へ至らなかった場合に、オリックスとの間で複数年契約を再び結ぶ意向も示していた。しかし実際には、WBC本大会での投球内容に対する高い評価などを背景に、MLBの複数球団から獲得を打診された。
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第一次オリックス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 21:05 UTC 版)
1997年は、開幕一軍入りこそ果たせなかったもののシーズン序盤に登録され、5月11日の対近鉄バファローズ戦で8番・中堅手としてスタメン起用されプロ入り初出場を果たす。5月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦でプロ初ヒットを、8月1日の対近鉄戦でプロ初本塁打を記録した。規定打席到達はならなかったが、ルーキーながらシーズン101試合に出場した。 1998年は132試合に出場し、規定打席にも到達。打率.284、10本塁打を記録し、プロ2年目ながらセンターのレギュラーを勝ち取った。 1999年は134試合に出場、リーグ5位となる打率.291を記録するなどし、初のベストナインにも選出された。また、前年1盗塁ながら同年は24盗塁を記録。盗塁死はわずか2で高い成功率を収めた。この年は一塁手として出場することも多かった。 2000年は134試合に出場、打率、本塁打ともに前年より成績を落とすが、自己最多の73打点を記録。前年より成功率は下げたが23盗塁を記録した。前年に引き続き、度々一塁手として起用された。 2001年は136試合に出場、プロ入り初の打率3割(.325、リーグ5位)を記録し、打点、本塁打、盗塁、いずれも自己最高を記録した。また、シーズンを通して52本の二塁打を放ち、日本記録を樹立。初のゴールデングラブ賞を受賞した。 2002年は138試合に出場、1998年からのレギュラー定着後以降最少の5本塁打に終わったが、前年を上回る打率.326(リーグ4位)を記録。自己最多の41盗塁を記録し、松井稼頭央との競り合いを制し、初の盗塁王を獲得。盗塁成功率も盗塁王では2015年シーズン終了時点で歴代1位の.911を記録した。 2003年は、シドニー五輪柔道金メダリスト田村亮子と結婚。シーズンでは137試合に出場し、9月には自身初の月間MVPを受賞した。また、シーズンを通して189安打を放ち最多安打のタイトルを獲得(2004年に近鉄バファローズとの合併したことによりブルーウェーブでの最後の打撃タイトル選手となった)し、パ・リーグの右打者としての安打数記録を更新。リーグ2位となる打率.350を記録し、本塁打も自己最多の21本を放つ好成績を上げる。外野守備では、自己最多補殺と二桁失策を同時に記録した。 2004年は中堅手のポジションを福岡ダイエーホークスからFA移籍してきた村松有人に譲り、守備負担の少ない左翼手にコンバートする。アテネオリンピック野球日本代表に選ばれ、銅メダルを獲得するも、最後の打者となった準決勝戦で一塁に駆け抜けた際に転倒し右足を負傷した。残りシーズンはほとんど試合に出場できなかったが、規定打席には到達。4年連続で打率3割を達成する。2004年末のオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併に伴う新球団東北楽天ゴールデンイーグルスとの分配ドラフトを経て引き続きオリックスと契約することが決まった。 2005年は打順は主に1番と3番、守備位置はセンターで起用される。しかし腰の怪我の影響もあり、規定打席には到達したが111試合の出場にとどまり、打率は規定打席到達の中では自己ワーストの.248で2000年以来5年ぶりに3割に届かず、盗塁においても盗塁数より盗塁死のほうが上回った。12月31日には長男が誕生した。 2006年は肘の故障などもあり、規定打席には到達したが118試合の出場にとどまり、打率.267、6本塁打、30打点に終わった。特に打点、盗塁はプロ入り最少であった。同年11月7日、鴨志田貴司、長田昌浩との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍。背番号は仁志敏久が着用していた8に決まった。推定年俸は前年の2億8,000万円から1億5,000万円へ。1億3,000万円の大幅ダウンとなった。
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第一次オリックス時代
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「フランシスコ・カラバイヨ」の記事における「第一次オリックス時代」の解説
同年7月9日、オリックス・バファローズが獲得を発表。7月12日に支配下登録された。BCリーグから外国人選手がNPBへ移籍するのは史上初。入団後の7月19日に一軍登録され、同日の対楽天戦で代打で途中出場すると、第2打席に初安打となるBCリーグ出身選手のNPB初本塁打をレフトスタンドへ放った。その後も一軍で出場機会を得て、随所で長打力を発揮した。最後は9月25日のロッテ戦での試合中にスイングした際に、左手首を骨折して戦線離脱したが、125打席で46三振、打率.257と粗さも見せつつも、7本塁打18打点とまずまずの成績を残した。8月21日のロッテ戦では満塁本塁打、9月15日の西武戦では1試合2本塁打も記録していた。 翌2011年はキャンプ終盤にまたも左手首の手術を受け今季絶望と思われたが、7月12日にウエスタン・リーグで実戦復帰するとその日の阪神戦で3ランを放つなど復調を見せ、3日後の7月16日に一軍昇格すると不振のT-岡田に代わって4番に抜擢されるも打撃に精彩を欠き、一軍での出場は僅か4試合にとどまり、10月24日に球団から戦力外通告を受けた。
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