第一次オルテガ政権
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「ダニエル・オルテガ」の記事における「第一次オルテガ政権」の解説
1984年11月4日の大統領選挙にて、有効投票の67.0%の得票により当選し、1985年1月10日から1990年4月25日まで、ニカラグア共和国大統領を勤めた。この選挙では徴兵制導入(コントラへの対処のため)への反対や、アメリカ合衆国ではなくコントラとの直接対話を掲げた野党の内、最大野党のニカラグア民主主義調整委員会(キリスト教社会党、社会民主党、立憲自由党の連合)とニカラグア民主運動の4党がボイコットし、白紙投票、棄権票を含めると実質的な国民の支持は47.4%の信任に留まったものの、ニカラグアにも民主的選挙による合法体制が成立し、1985年1月10日に副大統領のセルヒオ・ラミレス、国防大臣のウンベルト・オルテガと共に入閣した。 この第一次オルテガ政権で、国内総生産(GNP)の40%以上を占めたソモサ一家の財産をはじめとする私有財産の大規模な国有化が行われ、1977年に国内総生産比15%だった国有部門は1980年には34%に拡大した。この政策は多くの知識人・富裕層をロサンゼルス、マイアミに亡命させることになり、第一次ニカラグア内戦、コントラ戦争による被害や、FSLN政権を敵視したレーガン大統領によるアメリカ合衆国の経済制裁と併せて、ソモサ時代に国民の60%以上が貧困層でありながらも、マクロ経済では中央アメリカ一の繁栄を誇ったニカラグア経済は壊滅的な打撃を受けた(1990年のGDPはソモサ政権末期の30%以下)。その後10年以上も欧米OECD諸国が何百億円ものODAをつぎ込んだが、ニカラグアは2008年時点も1980年のGDPのレベルにまで到達できていない。 内戦は激しさを増し、それにつれてFSLN政権の左傾化は進んだ。激減したアメリカ合衆国の援助に代わってキューバやソビエト連邦の援助もあり、特にキューバは医療や識字教育への支援などに大きな役割を果たしたものの、結局は両国とも冷戦の範囲内でアメリカ合衆国を刺激しないような援助政策に留まり、ソ連からはT-55戦車は輸出されたものの、ミグ戦闘機の輸出などは結局行われなかった。 内戦中にニカラグア経済は壊滅的な状態となり、ハイパーインフレーションが進行する中でオルテガをはじめとするFSLN幹部は、苦しむ民衆を横目に旧ソモサ派から接収した豪邸に住み、高級外車を乗り回すなど腐敗の様相を帯び[要出典]、さらにはアメリカ合衆国による敵視政策や、左傾化政策により、国民の支持も徐々に失っていった。そのため、当初拒否していたコントラではなく、コントラの背後にいたアメリカ合衆国との直接対話を諦め、ニカラグア内戦の収拾を図った。コスタリカのオスカル・アリアス・サンチェス大統領やラテンアメリカ諸国によるコンタドーラ・グループの仲介もあり、1987年8月の中米和平合意に調印し、1988年にニカラグア政府とコントラの間で休戦協定が結ばれた。第一次ニカラグア内戦により4万人が、第二次ニカラグア内戦により5万から6万人が死亡したと見られ、数十万人が国外に亡命した。 内戦が終結した後、1990年2月に国際連合の監視下で行われた大統領選挙で、野党連合(UNO)のビオレータ・チャモロに10ポイントの大差で敗れ、選挙結果を受け入れてFSLN内部のクーデターの動きを制し、辞任した。
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