エチオピアの呼称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「エチオピアの呼称」の解説
エチオピアという呼び名を最初に使ったのは紀元前5世紀頃のギリシア人たちであり、歴史家のヘロドトスは『ヒストリア』においてエチオピア地方の人々をイティオプス (AETHIOPS) と記録した。これは「日に焼けた人々」を意味するギリシア語であり、旧約聖書においても同様の記述が残されている。これが現在のエチオピアの語源であるが、その国名が使用されるようになったのは1900年代になってからのことだった。この地域は有力な部族と周辺部族が混在する地域でしかなく、現在のエチオピアという国家としての概念は存在していなかった。ゴンダルを中心としたアムハラ系がかろうじて最大勢力であったが、支配地域は現在のエチオピア北部の一部でしかない。そのため、エチオピアという領土を含んだ国家の概念が生み出されるまでには、1889年にエチオピア帝国の皇帝に即位したメネリク2世による最大版図の確立を待たねばならなかった。 一方、彼ら自身は国名を名乗らなかったが、外部からはこの地域に名称をつけた民族が存在する。アラビア半島に住むアラビア人たちは、エチオピア地方のことをハベシュと呼んでいた。これは、スーダンから西方の人々を「黒い人々」「純血のハム系」を意味するスーダンと呼んだことと対比した言葉で、ハベシュはセム語化したハム族、つまり「混血」を意味する言葉だった。それは当初、アラビア人のみによる呼称だったが、マルコ・ポーロが『東方見聞録』においてこの言葉をアバッシュ (Abash) として取り上げると一般化し、ヨーロッパで伝播する過程でさらにアビシニアという言葉に転じた。その言葉はヨーロッパ人から見てエチオピアを示す言葉として広く浸透し、19世紀までエチオピアに向けた諸外国の書簡の宛名はアビシニアとなっていた。 だが、この広く浸透したアビシニアという言葉を、エチオピア地方の人々、特にアムハラ人は忌み嫌っていた。アビシニアとは混血以上に差別的な「あいの仔」という意味を持つ蔑称でもあった。また、「セム化したハム族」という意味の言葉が国名となることは、セム語系のアムハラ人が支配者層となっていたエチオピアの国情にもそぐわないものだった。折りしもメネリク2世の国内統一事業がほぼ完成しつつあったため、アムハラ人たちは至急それに変わる名称を用意しなければならなかった。そこでアムハラ族を中心とした支配者層は、ギリシアの記録に残るイティオプスから転じたエチオピアという名称を国名として名乗った。エチオピアという言葉の意味は、前述の日に焼けた人々という意味とともに、ハム族の息子という意味を持つ。しかしこれらの努力にもかかわらず、アビシニアという呼称は1940年代までヨーロッパ諸国の間で残ることになる。
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