兵変、敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 22:48 UTC 版)
張作霖軍は、上記のように馮玉祥麾下の国民軍と緊張状態にあっただけでなく、孫伝芳、呉佩孚などの軍閥軍との対立も続いていた。同年11月22日、郭松齢は張作霖の下野を要求して兵変を発動し「東北国民軍」の結成を宣言、張作霖と楊宇霆の打倒を目標とする軍事活動を開始する。郭の部隊は5万人を擁するもので奉天軍中において最も精鋭とされていた。備えの無かった張作霖は、張学良を派遣して収拾を図ろうとしたが、郭は拒否した。郭は11月28日に山海関を攻略して、12月1日に満州へ入り、12月7日には錦州も占領した。この攻勢に張作霖も、一時は下野を考えた。 このとき日本側は、満州軍閥交代の可能性と同時に、郭松齢が馮玉祥と連携し、中国国民党の影響も受けている点を警戒していた。関東軍は郭の意図を「張を駆逐して自らこれにかわり、国民党の三民主義を実現しようとすることは明らかであり、東三省を戦乱に巻き込み、満州にソ連の勢力を誘致して日本の国防および満蒙政策において看過できない事態を惹起する」と判断した。南満州鉄道社長・安広伴一郎も、郭の反乱の成功により「東三省が赤化運動に蹂躙され、満鉄や関東州の存在しない“自由地帯”が出現することを恐れる」として、日本の権益が損なわれることを憂慮した。 奉天の吉田茂総領事と天津の有田八郎総領事を含む外務省当局者も、郭が満州を掌握すれば国民党の進出を招き、赤化の脅威につながるとして、張の勢力を維持させて現状の継続を求めることが得策と判断した。日本政府側は、満州問題を中国の「一部の情勢」と判断した。宇垣一成陸相も「大局上の不利を招かざる範囲においては張の存在支持に大いに努力してやることが帝国のために得策」と認識していた。 12月8日、関東軍は郭松齢に対して警告をおこない、南満州鉄道とその附属地20里以内での作戦を許可しない旨を伝えた。これにより張作霖は、反撃のための動員を行うことが可能となった。郭は12月23日に敗北し、夫人の韓淑秀とともに逃亡したが、結局は逮捕されてしまう。12月25日、郭・韓は、奉天省遼中県において揃って銃殺された。郭、享年43。韓、享年35。事件後、追い詰められた馮玉祥は、翌1926年(民国15年)1月初めに下野を宣言する。そして、外蒙を経てソ連へ退避した。
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