兵学者としての大村益次郎
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「大村益次郎」の記事における「兵学者としての大村益次郎」の解説
益次郎は西洋人から直接兵法を学ばず、もっぱらオランダ訳の戦術書や高野長英ら先人たちの訳書をほとんど独学で習得するという天才的な技量を有していた。 舞鶴藩士・伊藤雋吉(のち海軍中将)が台場建設の命を受けて益次郎に相談した時、益次郎は小藩では台場を作っても役に立たぬ。絵に描いた餅すなわち画餅だと述べ、ついでに江川英龍が作った江戸湾の台場の欠点を挙げて「あれはタクチック(戦術)だけでストラトギイ(戦略)ということを知らぬ人がこしらえたので、江川先生がこしらえたのはタクチックである。あれはすなわち画餅である。」と酷評した。 長州戦争では「我が兵を損じざるようにいたし」と、あえて自分から攻撃を仕掛けることをせずに、幕府軍の使役に住民が離反して「内輪瓦解いたし候は必然」と相手の自滅を待つという戦略を持っていた。前線でも質素な服装に石盤を抱え、常に先頭に立っていた。部下が危険だと諌めても「決して無闇に鉄砲玉があたるものではない。死ぬも生きるもその場合の運命である。」と平然と答え、常に従者に長い梯子を持たせ、木の上や屋根に昇っては土地の形状や敵の状態を観察することを怠らなかった。 兵士の心理についても、状況において臨機応変に判断した。攻撃のとき、益次郎は河を前に逡巡する兵士に大声で叱咤した。兵士は「俺たちを溺れさせるのか。」と怒って渡河したが、帰ってくるときは仮設の船の橋がかけられており、一同感心した。当時の兵士の追想に「先生曰く敵に向かって進んでいくときには、皆が癇癪を起すぐらいでなければいかぬ。気にゆるみがあると、励みがつかぬ。帰りには気がゆるむから水にも飛び込めぬから、それで橋をかけたのであると言われた。」とある。 彰義隊を夜間に奇襲する意見を討議した際し益次郎は、連中は政権を返上した公儀の誠意にそむく反逆者で「断然勅命によって正々堂々と討伐せねばならぬ。それだから夜襲というようなことははなはだ善くないことで、よって名分を正しくして」と、白昼の攻撃を主張した。夜襲の混乱で敵が火をつけて市内を混乱に陥る事態を重要視した戦略でもあった。作戦計画も「上野山中を戦闘の場所として敵を食い止める。そうしたならば市民に迷惑をかけまい」として、もしそれに失敗しても神田川を境として戦闘区域とするなど、一般市民への被害を最小限度に抑えるよう計算していた。 彰義隊殲滅成功の一因として、佐賀藩から賃借した最新式のアームストロング砲がある。益次郎はこの砲撃の機会を十分に計算し、万一の事があれば砲を敵に奪われてはならぬと厳命していた。戦闘が午後を過ぎても終わらず、官軍の指揮官たちは夜戦になるのを心配したが、この時にはアームストロング砲による上野山の砲撃が開始されていた。皆の問いかけに、益次郎は平然と柱に寄りかかり懐中時計を見ながら「ああもう何時になりますから大丈夫です。別にそれほど心配するに及ばない。夕方には必ず戦の始末もつきましょう。もうすこしお待ちなさい。」と平然としていた。やがて江戸城の櫓から上野の山に火の手が上がるのを見て「皆さん、片が付きました。」と告げた。ほどなく戦勝を告げる伝令が到着し、一同益次郎の沈着さに感服した。
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