兵学者としての大村益次郎とは? わかりやすく解説

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兵学者としての大村益次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 21:38 UTC 版)

大村益次郎」の記事における「兵学者としての大村益次郎」の解説

次郎西洋人から直接兵法を学ばず、もっぱらオランダ訳の戦術書や高野長英先人たちの訳書をほとんど独学習得するという天才的な技量有していた。 舞鶴藩士・伊藤雋吉(のち海軍中将)が台場建設の命を受けて次郎相談した時、益次郎小藩では台場作って役に立たぬ絵に描いた餅すなわち画餅だと述べついでに江川英龍作った江戸湾台場欠点挙げて「あれはタクチック(戦術)だけでストラトギイ(戦略ということ知らぬ人がこしらえたので、江川先生こしらえたのはタクチックである。あれはすなわち画餅である。」と酷評した長州戦争では「我が兵を損じざるようにいたし」と、あえて自分から攻撃仕掛けることをせずに、幕府軍使役住民離反して内輪瓦解いたし候は必然」と相手自滅を待つという戦略持っていた。前線でも質素な服装石盤抱え、常に先頭立っていた。部下危険だ諌めても「決し無闇に鉄砲玉があたるものではない。死ぬも生きるその場合の運命である。」と平然と答え、常に従者長い梯子持たせ、木の上屋根に昇っては土地形状や敵の状態を観察することを怠らなかった。 兵士心理についても、状況において臨機応変判断した攻撃のとき、益次郎は河を前に逡巡する兵士大声叱咤した。兵士は「俺たち溺れさせるのか。」と怒って渡河したが、帰ってくるときは仮設の船のかけられており、一同感心した当時兵士追想に「先生曰く敵に向かって進んでいくときには、皆が癇癪起すぐらいでなければいかぬ。気にゆるみがあると、励みがつかぬ。帰りには気がゆるむからにも飛び込めぬから、それでをかけたのであると言われた。」とある。 彰義隊夜間奇襲する意見討議した際し次郎は、連中政権返上した公儀誠意にそむく反逆者で「断然勅命によって正々堂々討伐ねばならぬそれだから夜襲というようなことははなはだ善くないことで、よって名分正しくして」と、白昼攻撃主張した夜襲混乱で敵が火をつけて市内混乱陥る事態重要視した戦略でもあった。作戦計画も「上野山中を戦闘の場所として敵を食い止めるそうしたならば市民に迷惑をかけまい」として、もしそれ失敗して神田川を境として戦闘区域とするなど、一般市民への被害最小限度抑えるよう計算していた。 彰義隊殲滅成功一因として、佐賀藩から賃借した最新式アームストロング砲がある。益次郎はこの砲撃機会十分に計算し万一の事があれば砲を敵に奪われはならぬ厳命していた。戦闘午後過ぎて終わらず官軍指揮官たちは夜戦になるのを心配したが、この時にはアームストロング砲による上野山砲撃開始されていた。皆の問いかけに、益次郎平然と寄りかかり懐中時計を見ながら「ああもう何時なりますから大丈夫です。別にそれほど配する及ばない夕方には必ず戦の始末もつきましょうもうすこしお待ちなさい。」と平然としていた。やがて江戸城から上野の山火の手が上がるのを見て皆さん、片が付きました。」と告げたほどなく戦勝告げ伝令到着し一同次郎沈着さに感服した

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