兵庫の兄の家とは? わかりやすく解説

兵庫の兄の家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:38 UTC 版)

のんきな患者」の記事における「兵庫の兄の家」の解説

1930年昭和5年4月24日の母・ヒサ退院後、基次郎淀野隆三らが創刊する同人誌詩・現実』(発行元武蔵野書院)のために5月に軽い作品愛撫』を書き終え詳細愛撫 (小説)#「詩・現実」参照)、5月31日結婚した弟・勇が大阪市住吉区王子町2丁目44番地町名変更後〉(現・阿倍野区王子町2丁目14番12号)の実家に嫁・豊子を迎えたため、兵庫県川辺郡伊丹町堀越町26(現・伊丹市清水町2丁目)の兄・謙一の家に移住した発熱し夏に一旦大阪実家戻って闇の絵巻』を仕上げた次郎は、9月1日に兄の家に戻ったが、身体はかなり痩せ病状苦痛強くなっていた(詳細闇の絵巻#発熱の中の本稿)。この頃見舞いに来た辻野久憲に、同じ結核死んだ異母妹八重子のことや正岡子規の『病床六尺』の話をしていた。9月28日からは兄一家転居に伴い川辺郡稲野村大字千僧小字池ノ上(現・伊丹市千僧池西)に移住し、母や末弟・良吉と共に六畳と八畳の部屋のある離れ落ちついた。 基次郎はこの千僧の家で、帰阪以来考えていた〈根の深いもの〉、日本既成左翼文学欠けている〈真実〉、〈プロレタリヤの生活に伍しプロレタリヤの生活を真に知つた小説〉を実現するため、〈生活に対す愛着〉〈自分経験したことを表現する文学正道〉を基礎しながら大阪下町舞台にした『交尾』や『のんきな患者』の執筆取り組み、〈僕のその日暮しの生活をそのまゝ書いて〉いくことで、〈天下茶屋の家の小説〉〈小説らしい小説〉を目指した (詳細愛撫 (小説)#井原西鶴の精神交尾 (小説)#生活に対す愛着参照)。 なんとか12月書き上げた交尾』の発表後尾崎士郎宇野千代元夫)から賞讃の手紙を貰った次郎は、尾崎和解し次作への意欲を、〈必ず 必生〔ママ〕の作品書き地球へ痕を残すつもりです〉と語った詳細交尾 (小説)#尾崎士郎の「河鹿」を参照)。この尾崎への返信には、1931年昭和6年1月2日庭先で兄・謙一に撮ってもらった写真同封されていたが、庭に出した籐椅子座っている基次郎の姿は、最晩年貴重な肖像写真となった敷地500坪ある千僧の家の庭の周辺にはがあり、『のんきな患者』の作中での渡り鳥巡って椋鳥珍問答する母親との会話場面は、この家の基次郎部屋舞台となっている。なお、母は毎月20日過ぎになると、帳簿仕入手伝うた勇夫婦のいる大阪実家の店に行き、基次郎もそれについて行くこともあったが、12月寝込んでいたため行かれなかった。 1931年昭和6年1月中旬から2月、基次郎流感にも罹り激し高熱呼吸困難続いた1月末に見舞いにやって来た三好達治は、基次郎痩せこけた頬のあまりの衰弱ぶりに愕然とした三好東京に戻るとすぐに淀野隆三相談し、基次郎の命があるうちに創作集の出版をすることを決めて2人奔走した詳細梶井基次郎#仲間らの奔走――創作集刊行参照)。

※この「兵庫の兄の家」の解説は、「のんきな患者」の解説の一部です。
「兵庫の兄の家」を含む「のんきな患者」の記事については、「のんきな患者」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「兵庫の兄の家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「兵庫の兄の家」の関連用語

兵庫の兄の家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



兵庫の兄の家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaののんきな患者 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS