兵庫の兄の家
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1930年(昭和5年)4月24日の母・ヒサの退院後、基次郎は淀野隆三らが創刊する同人誌『詩・現実』(発行元・武蔵野書院)のために5月に軽い作品『愛撫』を書き終え(詳細は愛撫 (小説)#「詩・現実」を参照)、5月31日に結婚した弟・勇が大阪市住吉区王子町2丁目44番地〈町名変更後〉(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)の実家に嫁・豊子を迎えたため、兵庫県川辺郡伊丹町堀越町26(現・伊丹市清水町2丁目)の兄・謙一の家に移住した。 発熱し夏に一旦大阪の実家に戻って『闇の絵巻』を仕上げた基次郎は、9月1日に兄の家に戻ったが、身体はかなり痩せ、病状の苦痛も強くなっていた(詳細は闇の絵巻#発熱の中の本稿)。この頃見舞いに来た辻野久憲に、同じ結核で死んだ異母妹・八重子のことや正岡子規の『病床六尺』の話をしていた。9月28日からは兄一家の転居に伴い、川辺郡稲野村大字千僧小字池ノ上(現・伊丹市千僧池西)に移住し、母や末弟・良吉と共に六畳と八畳の部屋のある離れに落ちついた。 基次郎はこの千僧の家で、帰阪以来考えていた〈根の深いもの〉、日本の既成左翼文学に欠けている〈真実〉、〈プロレタリヤの生活に伍し、プロレタリヤの生活を真に知つた小説〉を実現するため、〈生活に対する愛着〉〈自分の経験したことを表現する文学の正道〉を基礎にしながら、大阪の下町を舞台にした『交尾』や『のんきな患者』の執筆に取り組み、〈僕のその日暮しの生活をそのまゝ書いて〉いくことで、〈天下茶屋の家の小説〉〈小説らしい小説〉を目指した (詳細は愛撫 (小説)#井原西鶴の精神、交尾 (小説)#生活に対する愛着を参照)。 なんとか12月に書き上げた『交尾』の発表後、尾崎士郎(宇野千代の元夫)から賞讃の手紙を貰った基次郎は、尾崎と和解し次作への意欲を、〈必ず 必生〔ママ〕の作品を書き、地球へ痕を残すつもりです〉と語った(詳細は交尾 (小説)#尾崎士郎の「河鹿」を参照)。この尾崎への返信には、1931年(昭和6年)1月2日に庭先で兄・謙一に撮ってもらった写真が同封されていたが、庭に出した籐椅子に座っている基次郎の姿は、最晩年の貴重な肖像写真となった。 敷地が500坪ある千僧の家の庭の周辺には櫟があり、『のんきな患者』の作中での渡り鳥を巡って、鵯か椋鳥か珍問答する母親との会話の場面は、この家の基次郎の部屋が舞台となっている。なお、母は毎月20日過ぎになると、帳簿や仕入を手伝うため勇夫婦のいる大阪の実家の店に行き、基次郎もそれについて行くこともあったが、12月は寝込んでいたため行かれなかった。 1931年(昭和6年)1月中旬から2月、基次郎は流感にも罹り激しい高熱と呼吸困難が続いた。1月末に見舞いにやって来た三好達治は、基次郎の痩せこけた頬のあまりの衰弱ぶりに愕然とした。三好は東京に戻るとすぐに淀野隆三と相談し、基次郎の命があるうちに創作集の出版をすることを決めて2人で奔走した(詳細は梶井基次郎#仲間らの奔走――創作集刊行を参照)。
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