仲間らの奔走――創作集刊行
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「梶井基次郎」の記事における「仲間らの奔走――創作集刊行」の解説
1931年(昭和6年)1月、「交尾」が、小野松二の主宰雑誌『作品』に発表された。井伏鱒二はこの作品を、「神わざの小説」と驚嘆して賞揚した。以前揉めた尾崎士郎からも好評の葉書が来て、基次郎は嬉しさを感じ〈必生〔ママ〕の作品を書き、地球へ痕を残すつもりです〉と返信した。 しかし流感で発熱が続いて寝込む日々が続いた。月末に見舞いに来た三好達治は、痩せて頬のこけた基次郎の衰弱ぶりに驚き、生きているうちに友の創作集の出版を淀野隆三と相談し2人で奔走した。淀野は『詩・現実』の版元の古書店・武蔵野書院から出版できることを基次郎に知らせた。基次郎は、2人が版元に渡すため原稿用紙に写す作業をすることを心苦しく思い、〈僕の本のことで いい時間を使ふことをやめてほしい〉と気づかうが、友の好意を〈涙が出ます〉とありがたく受け取った。 2月中旬にやっと熱は下がるが、基次郎は床に伏したままであった。淀野からの問い合わせに基次郎は答え、作品集のタイトルを『檸檬』に決めて構成などの方針を、母の代筆で書き送った。3月、『作品』の作品評で井伏鱒二が「交尾」を取り上げ、「水際たつてゐる」と高評した。この頃基次郎は、大便を便所に立って行けるようになり、ようやく寝床で起きて食事ができるようになったが、春過ぎまで寝たり起きたりの日々が続き、枕元のラジオをよく聴いていた。 4月、作品集の校正刷りが出来上った時、基次郎は「橡の花」を〈レベル以下〉として削除するように頼んで、淀野らに労を詫びた。川端康成が『読売新聞』に「芸術派・明日の作家――芸術派雑誌同人批評」で基次郎の名前を挙げた。5月、小野松二も『作品』の文芸時評で基次郎の作品に触れた。基次郎は健康になるため、近所の人が殺したというマムシを母に拾ってきてもらい食べた。 5月15日、初の創作集『檸檬』が刊行された。基次郎は18日に届いた本を一日眺め暮し、〈「これからだ」と自分を励まし〉ながらも病気のことを考えて〈絶句〉した。淀野らは『檸檬』を作家らに寄贈した。下旬に、『中央公論』編集部の田中西二郎から作品を見たいと手紙が来た。これは新人作家の八重樫昊が基次郎を推薦したためで、その話を同誌4月号に「北方」が推薦された北川冬彦から伝え聞いた基次郎は文壇の総合文芸誌にデビューできる嬉しさを味わった。 6月、創作集『檸檬』の反響が表われ、『詩・現実』第5号に丸山薫が「『檸檬』に就いて」を載せ、井上良雄も『詩と散文』で激賞した。中旬に紀州の親類(兄嫁の実家)が湯崎で捕まえ送ってくれたマムシの生き肝を飲むが、2、3日後に浮腫となり腎臓炎と診断された。 7月、『新文學研究』第3集で伊藤整が「三つの著書」として百田宗治の『パイプの中の家族』、横光利一の『機械』と共に『檸檬』を好評した。中旬に届いた淀野隆三・佐藤正彰訳のプルースト『失ひし時を索めて』の第1巻『スワン家の方』を基次郎は読み、プルーストを〈狭い世界の大物〉と賞讃した。基次郎は井上良雄の書評を喜んだことを北川冬彦に書き送り、〈僕の観照の仕方に「対象の中へ自己を再生さす」といふ言葉を与へてくれただけでも、僕は非常に有難いことだつた〉と告げた。 8月、創作集の印税75円を受け取った。基次郎は家族からせっつかれ、なかなか入らなかった印税を版元に催促するよう淀野に頼んでいた自分を恥ずかしく感じた。生活費に困り印税をあてにして母は蚊帳を買って布団も作りたいと言い、末弟も参考書をほしがっていた。9月、雑誌『作品』にプルーストの『スワン家の方』の書評「『親近』と『拒絶』」を発表した。基次郎は、〈回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひない〉と評価しつつ、プルーストの〈回想の甘美〉を拒否し、自分の〈素朴な経験の世界〉へ就こうとする姿勢を示した。 その頃、家の中では兄嫁・あき江が、子供らが基次郎になついて離れにしばしば遊びに行くことを嫌がり姑のヒサと時々衝突することがあった。そして9月下旬、ヒサの留守中、「そばに寄ったら病気が移る」と子供に注意した一言を聞いて怒った基次郎と揉め、兄嫁は子供2人を連れて実家へ帰ってしまう事件があった。10月、弟・勇が基次郎を引き取りに来て、母と共に大阪市住吉区の実家に戻った。 基次郎は浜寺や畿内に療養地がないかと考えたが、すぐ近くの住吉区王子町2丁目13番地(現・阿倍野区王子町2丁目17番29号)に空き家があったため、そこに移住した。ボロ家で狭かったが、実家から2分ほどで、食事の面倒も母に見てもらえた。一応は独立した家に「梶井基次郎」と自筆の表札を掲げ1人で住むことに基次郎は感慨を覚えた。千僧からの引っ越し荷物の中に、『中央公論』からの12月号への正式原稿依頼があったのを見つけ、間に合わないために新年号に延期してもらった。
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