井原西鶴の精神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:31 UTC 版)
上記の『詩・現実』での北川冬彦や淀野隆三らと同じく、当時の基次郎も社会的な問題意識に関心を寄せ、マルクス『資本論』、レマルクの『金融資本論』や、ゴーリキーの『アルタモノフの一家の事業』、『安田善次郎伝』などを読み、社会派的小説への意欲を持っていた。しかしながら、それは日本の左翼文学のように公式的な観念や表層のつまらないものではなく、もっと一般の生活に根づいたものであった。 僕はこの頃プロレタリヤの小説には倦きてしまつて 面白く読んだことがない。岩藤の軍艦を修繕する小説(中央公論?)にしても小林の小説にしても少しも面白くない、かういふ標準でものを云ふのは問題を不明瞭にするかもしれないが、どうして二度読み三度読みして猶且面白いといふやうな小説が彼等から出ないのだらう。僕は彼等の小説が面白くない原因は彼等がほんたうにプロレタリヤ大衆のなかへ生活を見出してゐないことにあるのぢやないかと思ふ。これも少し漠然とした云ひ方だが、プロレタリヤの生活に伍し、プロレタリヤの生活を真に知つた小説がほしいのだ、何しろ真実が欠けてゐるよ。 — 梶井基次郎「中谷孝雄宛ての書簡」(昭和5年6月14日付) その頃、基次郎は井原西鶴にも惹かれ、〈色と慾とで万事を見て行った西鶴の態度〉や、その両者を〈唯一の実在として小説を書いてゐる〉ことに感心し、西鶴を日本の代表的作家だと評価していた。基次郎は『愛撫』を〈半分デンゴウ書きをした〉ものとしているが、この〈デンゴウ書き〉とは、大阪弁で「いたずら書き」を意味し、実は井原西鶴の精神である。『好色一代男』の跋には、「むかしの文枕とかいやり捨られし中に、転合書のあるを取集て」と記されている。 最近「詩・現実」といふ友人の雑誌へ猫の話を書きました、僕は半分デンゴウ書きをしたのですが 難しいことを云つて褒める人もあり、プルウストよりも偉大だと云ふ人もあるとかで面白がつてゐます (中略)僕はもつと猫の話を書いて難かしいものを書く詩人達や批評家を困らしてやらうと思ふのですが、どれも滑稽なのでいつも独り笑ひをしてゐます — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(昭和5年6月24日付)
※この「井原西鶴の精神」の解説は、「愛撫 (小説)」の解説の一部です。
「井原西鶴の精神」を含む「愛撫 (小説)」の記事については、「愛撫 (小説)」の概要を参照ください。
- 井原西鶴の精神のページへのリンク