兵変の末に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/03 08:29 UTC 版)
そして1920年(民国9年)11月、王文華は劉顕世打倒のクーデターを発動し、劉を下野に追い込んだ(民九事変)。しかし、王は劉の甥でありながらこのような挙に出たこと、さらには旧派要人に対する殺戮が甚だしかったため批判が強く、王は直ちに貴州には戻れなかった。そこで王は、孫文支持派の有力軍人である盧燾を黔軍総司令代理として推している。王自身はしばらく上海を拠点として、孫文を支援する活動をしながら、時期を見て貴州に戻ろうとした。しかし1921年(民国10年)3月16日、北京政府への接近姿勢を見せていた王の有力な部下である袁祖銘が刺客を放ち、王は上海で暗殺された。享年35。
※この「兵変の末に」の解説は、「王文華 (民国)」の解説の一部です。
「兵変の末に」を含む「王文華 (民国)」の記事については、「王文華 (民国)」の概要を参照ください。
- 兵変の末にのページへのリンク