軍と戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 07:53 UTC 版)
"[UN evacuation of Korea] will prove to be true soon or at least when our 13th Army Corps reaches Kaesong or Seoul." Mao Zedong arguing for the new offensive 1950年12月22日頃には、アメリカ第8軍の戦線は38度線付近で安定していた。ウォーカーは、亡くなるわずか数日前まで、アメリカ軍の第1軍団、第9軍団、韓国軍の第3軍団をソウルを守るために38度線に沿って配置していた。アメリカ軍の第1軍団、第9軍団はそれぞれ臨津江、漢灘江を守ることになっており、韓国軍の第3軍団は春川周辺地域を守ることになっていた。第1軍団、第9軍団の境界は国道3号により示され、西側の韓国軍第1歩兵師団、東側の第6師団により守られた。 1950年の年末には、韓国軍の死傷者がおよそ45,000人になっていたので、ほとんどの部隊がほとんど訓練を受けていない新兵で構成されていた。戦端が開かれる前のわずか数日前に戦線を調べた後に、アメリカ陸軍参謀総長ジョーゼフ・ロートン・コリンズは、韓国軍のフォーメーションが前哨任務にしか適していないと結論付けた。同時に、第8軍は早期の敗北のせいでモラルが低下しており、ほとんどの兵が朝鮮半島からの撤退を期待していた。第8軍において、中国軍と戦い接触を保つ意思の欠如が、人民志願軍の行動と意図に関する情報の欠如につながった。12月27日に戦線を調べた後に、リッジウェイは第1軍団、第9軍団に対して高陽市周辺から議政府市までBridgehead Lineと呼ばれる新たな防衛線を構築し、万が一国連軍がソウルに撤退させられる場合は漢江の渡河をカバーするように命じた。 しかし、人民志願軍もまた、勝利した後に戦術的な問題と消耗に苦しんでいた。12月7日、Third Phase Campaignに反論する中で、人民志願軍司令官の彭徳懐は、毛沢東に「人民志願軍において死傷者を交代させるのに数ヶ月間はかかり、部隊のほとんどが再補給と休息、再編を緊急に必要としている」と書いた電報を送った。また、民衆が軍に供給する人民戦争理論に基づいた中国の兵站システムは、無関心と対立、38度線付近の人々により、困難になった。当時の人民志願軍は飢餓と冬服の不足に苦しんでいた。 部隊の状態に対する彭徳懐の懸念を受けて、毛沢東はThird Phase Campaignの範囲を制限し、韓国軍を38度線付近に釘付けにして、可能な限り大きな損害を与えることにした。国連軍の部隊が韓国軍のフォーメーションの間に散在せず、支援できないことを知り、毛沢東は人民解放軍第13軍に対して、韓国軍の第1歩兵師団、第6歩兵師団、第3軍団を壊滅させるように命じた。毛沢東の命令で、彭徳懐は第38集団軍、第39集団軍、第40集団軍、第50集団軍を韓国軍の第1歩兵師団、第6歩兵師団の前に配置し、第42集団軍、第66集団軍を第3軍団の区域に移動させた。攻勢の開始日は、満月下で夜襲するため、また祝日で国連軍兵士の警戒度が低下することが予想されるので、12月31日に設定された。同様の理由で、リッジウェイは12月31日に中国の攻勢が起こる可能性が高いと予測していた。38度線で韓国軍を壊滅させるとその後の国連軍の反抗が不可能になると信じていたので、毛沢東は戦いが終わるまでに、休息と再編のために中国軍のすべての部隊を前線から引き離すことを約束した。
※この「軍と戦略」の解説は、「第3次ソウルの戦い」の解説の一部です。
「軍と戦略」を含む「第3次ソウルの戦い」の記事については、「第3次ソウルの戦い」の概要を参照ください。
- 軍と戦略のページへのリンク