軍との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:27 UTC 版)
泉は個人的に軍人に対して好感を持っておらず、沖縄県知事としての職務上も軍としばしば対立していた。 連合軍上陸に備えた住民の避難に関しては、県外疎開の方向性や、沖縄島北部への島内疎開実施に異論を唱えた。軍や政府中央は、住民のうち10万人は県外疎開させ、残りの非戦闘員に関しては1945年2月までに島の北部へと移動させて軍と分離する方針だった。戦闘活動の妨げをなくし、巻き添え被害を避けるための措置であった。泉は、島外疎開すべきは戦闘の足手まといとなる老幼婦女子のみで、原則は住民は軍の補助をすべきとの方針を強調していた。さらに、島内疎開に関しては、島の北部は未開の山地が多く、食糧調達の困難や伝染病の危険が大きいと反対し、軍や内務省などに方針転換を求めていた。一方で、非武装の民間人を軍とともに玉砕させるのは不合理だとも考えていた。泉の香川県知事への転任直前の東京出張の際にも、軍や各省局長との交渉が行われている。しかし、県側としては、適当な代替案を提示できたわけではなく、泉も結局は食糧備蓄の促進を図るほかないとあきらめている。 また、野里洋によると、慰安所の設置に関しても、軍と対立したという。駐留部隊の増加とともに兵士が地元女性に乱暴するなどの事件がおきたため、軍が慰安所の設置協力を求めたのに対し、泉は内地である沖縄にはふさわしくないと拒んだ。軍は、警察に対して別に働きかけて設置を実現している。野里は、泉の態度を、当時としては珍しい気骨のある行政官であると評している。 野里は、十・十空襲の際の泉の行動に対しての批判が政府中央にまで広まったのは、泉を嫌った軍が故意に不利な情報を広めたためではないかとも推測している。 ただし、泉は軍と対立しながらも、戦時体制そのものに対して反対していたわけでもない。娯楽の規制などには積極的であった。欠員が生じた衆議院沖縄選挙区の補欠選挙に際しては、戦時下に選挙は好ましくないとして、大政翼賛会系の候補以外に圧力をかけて立候補を断念させ、無投票当選としている。
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