宣言当日まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 04:16 UTC 版)
第一次世界大戦末の1918年11月3日にキール軍港で起きた水兵の蜂起はドイツ革命に発展した。革命は数日のうちに燎原の火のごとくドイツ帝国全土に広がり、ドイツ帝国諸邦では君主が次々に退位させられていった。11月7日にバイエルン王国のミュンヘンでクルト・アイスナーが王制廃止・共和制樹立を宣言してヴィッテルスバッハ家を倒し、バイエルンを連邦における自由州とした。 フリードリヒ・エーベルト率いるドイツ社会民主党は、10月の政変により三党政府が成立したことでドイツ帝国の民主化という目標を達成していた。10月の政変でビスマルク憲法が改正されてドイツ帝国は実質的に立憲君主制国家となり、政府はもはや皇帝ではなく帝国議会に対して責任を負うようになった。ドイツ社会民主党はこの前提の下で既存の体制からの継続性と勢力バランスを維持する方針であったため、君主制そのものは維持し得る状況にあったが、党指導部はヴィルヘルム2世の戦争責任を追及してその退位を求めた。ヴィルヘルム2世は10月29日に戦況を視察するという名目でベルギーのスパにある大本営に遷座したが、重臣の説得にもかかわらず退位を渋り、決断を先送りにしていた。その間にも、ベルリンでは君主制廃止を目指す不穏な空気が広がりつつあった。 11月8日夕刻には、ベルリンのドイツ社会民主党指導部のもとに、内部に急進左派のスパルタクス団を抱えるドイツ独立社会民主党が翌日にゼネストと大衆デモを計画していることが伝わった。その要求は皇帝の退位に留まらず、君主制そのものの廃止をも含むであろうことはもはや明白であった。これを防ぐため、帝国宰相バーデン大公子マクシミリアンはエーベルトの主張を容れて、11月9日朝にヴィルヘルム2世に相談することなくドイツ皇帝およびプロイセン国王からの退位を声明した。声明文には以下のように記されていた。 皇帝にして国王はその座を退くことを決断された。帝国宰相は、皇帝の退位ならびにドイツ帝国およびプロイセン王国の皇太子の退位、そして摂政の擁立に関する問題が解決するまで在任する。(Der Kaiser und König hat sich entschlossen, dem Throne zu entsagen. Der Reichskanzler bleibt noch so lange im Amte, bis die mit der Abdankung des Kaisers, dem Thronverzicht des Kronprinzen des Deutschen Reiches und von Preußen und der Einsetzung der Regentschaft verbundenen Fragen geregelt sind.) — プロイセン王位まで放棄するつもりはなかったヴィルヘルム2世はこれを知って激怒したが、ヒンデンブルクの進言もあって11月10日早朝にホーエンツォレルン家の莫大な財産とともにオランダに亡命した。ヴィルヘルム2世は公式な退位宣言はしないつもりであったが、結局は1918年11月28日に退位宣言に署名せざるを得なくなった。一方、11月9日正午にマクシミリアンは帝国宰相を退き、フリードリヒ・エーベルトに後事を託したが、エーベルトはマクシミリアンに対してヴィルヘルム2世の後継者が即位するまで摂政として留まるよう懇請している。事ここに至っても、エーベルトはまだ君主制を維持できると信じていた。
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