アーザム・ジャーとは? わかりやすく解説

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アーザム・ジャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/29 09:01 UTC 版)

アーザム・ジャー
ニザーム藩王国王太子
アーザム・ジャーとその家族

称号 ベラール公
出生 (1907-02-21) 1907年2月21日
ハイダラーバード
死去 (1970-10-09) 1970年10月9日(63歳没)
ハイダラーバード
配偶者 デュルリュシェフヴァル・スルタン
子女 バルカト・アリー・ハーン
カマラト・アリー・ハーン
父親 ウスマーン・アリー・ハーン
母親 ドゥルハーン・パシャ・ベーグム
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アーザム・ジャー(Azam Jah, 1907年2月21日 - 1970年10月9日)は、インドデカン地方ニザーム藩王国(ハイダラーバード藩王国)の王太子。ベラール公(Prince of Berar)とも呼ばれる。本名はヒマーヤト・アリー・ハーン(Himayat Ali Khan)。

略歴

妃のオスマン帝国皇女デュルリュシェフヴァル、その父、オスマン帝国最後のカリフアブデュルメジト2世と(1931年

1907年2月21日ニザーム藩王国の君主ウスマーン・アリー・ハーン(当時はまだ王太子)の長男として、ハイダラーバードで生まれた[1]。母はドゥルハーン・パシャ・ベーグム[1]

1911年9月18日、父王が戴冠したことにより、王太子に任命される[1]

1931年11月14日、オスマン帝国の皇女でイスラーム世界最後のカリフの娘でもあるデュルリュシェフヴァル・スルタンと、南仏のニースで結婚した[1]。デュルリュシェフヴァル・スルタンと仲はとてもよく、2人の息子にも恵まれた[1]

1936年11月13日、ベラール公の称号を授けられる[1]

1948年9月、藩王国がポロ作戦によりインド共和国へと併合されると、父は退位せねばならず、アーザム・ジャーも同時に王太子の地位を失った。

1970年10月9日、ハイダラーバードで死亡した[1]

脚注




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