サアーダトゥッラー・ハーンとは? わかりやすく解説

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サアーダトゥッラー・ハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/04 15:49 UTC 版)

サアーダトゥッラー・ハーン
Sa'adatullah Khan
カルナータカ太守
在位 1710年 - 1732年
別号 ナワーブ
全名 ムハンマド・サイイド・サアーダトゥッラー・ハーン
出生 生年不詳
死去 1732年
アルコット
王朝 ナワーヤト朝
宗教 イスラーム教
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サアーダトゥッラー・ハーン(Sa'adatullah Khan, 生年不詳 - 1732年)は、南インドカルナータカ太守(在位:1710年 - 1732年)。サアーダトゥッラー・ハーン1世(Sa'adatullah Khan I)とも呼ばれる。

生涯

1710年カルナータカ太守ダーウード・ハーン・パンニーがデカン総督に任命されデカン地方へ赴いたため、サアーダトゥッラー・ハーンが代わりに太守に任命された。彼はすでにこの頃により独立の動きを強め、ムガル帝国から自立化しつつあったという[1]

1711年には、サアーダトゥッラー・ハーンは前太守がイギリス東インド会社に与えたマドラス付近の5村に関して、不十分な助成金を理由に返還を要求したが、結局これは会社側の有力商人によって友好的に解決された。

アウラングゼーブの死後、ムガル帝国の広大な領土では反乱が相次ぎ、1713年に帝国内でジャハーンダール・シャーファッルフシヤルが帝位をめぐって争うと、カルナータカ太守サアーダトゥッラー・ハーンは帝国から独立し、カルナータカ地方政権を樹立した。以降、1744年まで彼の一族であるナワーヤト家が太守位を世襲することとなった

これにより、南インドの広大な版図がムガル帝国から消え去り、この地に帝国の支配は及ばなくなってしまった。とはいえ、歴代の君主は名目上は帝国の主権を認めていた。

サアーダトゥッラー・ハーンの治世初期には、北インド出身のラージプートであるデー・シングがシェンジ(ジンジー)を拠点に反旗を翻し(その父スワループ・シングはアウラングゼーブによってシェンジを任された人物だった)、反乱は1714年10月3日に彼が殺されるまで続いた。

サアーダトゥッラー・ハーンの治世で注目されるのは、ムガル帝国の正式の許可なしに甥のドースト・アリー・ハーンを後継者に指名したことだった(私的な認可受けていた)。

また、1724年には南インドのほかの勢力とも連携して、マイソール王国の首都シュリーランガパッタナを包囲している[2]

1732年、サアーダトゥッラー・ハーンは死亡し、太守位はドースト・アリー・ハーンに継承された。

脚注

  1. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.172
  2. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.38

参考文献

  • 辛島昇 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社、2007年 

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