両家の対立と第一次カーナティック戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/27 04:18 UTC 版)
「カルナータカ太守」の記事における「両家の対立と第一次カーナティック戦争」の解説
1742年10月13日、サフダル・アリー・ハーンは従兄弟ムルタザー・アリー・ハーンに暗殺されたが、ニザームがこれに介入した。これにより、サフダル・アリー・ハーンの幼少の息子サアーダトゥッラー・ハーン2世が太守位を継ぎ、その後見役にホージャ・アブドゥッラー・ハーンが任命された。 また、ニザームとカルナータカ太守の軍勢はティルチラーパッリのマラーター勢力を包囲し、8月29日にこれを占領した(ティルチラーパッリ包囲戦) だが、1744年3月にホージャ・アブドゥッラー・ハーンが暗殺されると、ニザームの代官アンワールッディーン・ハーンが太守の後見役となった。同年7月にはサアーダトゥッラー・ハーン2世も暗殺され、ナワーヤト朝の直系の血筋が絶えると、アンワールッディーン・ハーンがニザーム王国により新太守に任命され、アンワーリーヤ朝が成立した。 これに激怒したのがナワーヤット家のチャンダー・サーヒブだった。彼はサアーダトゥッラー・ハーン2世の義理の叔父で、ドースト・アリー・ハーンの娘婿である自分こそが新太守にふさわしいと思っていた。 これにより、ナワーヤット朝とアンワーリーヤ朝との対立が生じ、当時インドの覇権をめぐって争っていたマドラスを拠点としたイギリス、ポンディシェリーを拠点としたフランス(1740年のオーストリア継承戦争により戦争が勃発していた)の争いが持ち込まれ、同年に第一次カーナティック戦争(カルナータカ戦争)が勃発した。 イギリスとフランスは南インドの地で4年にわたり争い、フランスはジョゼフ・フランソワ・デュプレクスのもと優勢に戦い、1748年10月にヨーロッパの戦争が終わると、第一次カーナティック戦争も終結した。 この戦争では現地勢力はあまり関与しなかったが、アンワールッディーン・ハーンがマドラス陥落の直前に援軍を送ったことで、これ以降戦争は現地勢力も巻き込んでいくこととなった。
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