アズィーム・ウッダウラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/05 16:39 UTC 版)
| アズィーム・ウッダウラ Azim ud-Daula |
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| カルナータカ太守 | |
アズィーム・ウッダウラ
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| 在位 | 1801年 - 1819年 |
| 戴冠 | 1801年7月31日 |
| 別号 | ナワーブ |
| 全名 | アブドゥル・アリー・ハーン |
| 出生 | 1775年 |
| 死去 | 1819年8月2日 マドラス |
| 埋葬 | ティルチラーパッリ |
| 子女 | アーザム・ジャー アズィーム・ジャー |
| 王朝 | アンワーリーヤ朝 |
| 父親 | アミールル・ウマラー |
| 宗教 | イスラーム教 |
アズィーム・ウッダウラ(Azim ud-Daula, 1775年 – 1819年8月2日)は、(年金受給者としての)南インドのカルナータカ太守(在位:1801年 - 1819年)。本名はアブドゥル・アリー・ハーン(Abdu'l Ali Khan)という。
生涯
1801年7月15日、カルナータカ太守である叔父ウムダトゥル・ウマラーがに突如として急死し、甥のアズィーム・ウッダウラが太守位を継承した[1]。
叔父ウムダトゥル・ウマラーはその治世の間にイギリスから第四次マイソール戦争への内通を疑われ続け、その死があまりにも急だったため、イギリスに暗殺されたのではないかとささやかれていた。彼の死を機に、イギリスはこの問題に決着を着けようとした。
同年7月26日、イギリスはアズィーム・ウッダウラの継承を認めたが、 同時にカーナティック条約を締結させた[1]。この条約ではカルナータカ太守はその全権と全領土をイギリスに委譲せねばならず、これにより太守はイギリス保護下の年金受給者となった[1][2]。
アズィーム・ウッダウラは委譲した領土の5分の1から得られる歳入という莫大な年金で暮らし、1819年8月2日に死亡した[1]。
脚注
参考文献
- ビパン・チャンドラ; 栗原利江訳 『近代インドの歴史』 山川出版社、2001年。
関連項目
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