領土の接収と年金生活者化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/27 04:18 UTC 版)
「カルナータカ太守」の記事における「領土の接収と年金生活者化」の解説
1795年10月、ムハンマド・アリー・ハーンの死後、その息子ウムダトゥル・ウマラーが太守位を継承した。1799年の第四次マイソール戦争では、イギリスに味方するように見せかけて、マイソール側に密かに物資を供給するなどして加担したものの、マイソール王国は敗北してしまった。 第四次マイソール戦争終結後、ウムダトゥル・ウマラーはイギリスにマイソール戦争での関与を執拗に疑われ、彼自身は否定し続けたが、1801年7月15日に急死した。イギリスはすぐさま、同年7月31日に後を継いだ甥のアズィーム・ウッダウラとカーナティック条約を結び、マイソール王国への協力を理由に太守の全権と全領土を奪い、その代り莫大な年金をあてがうこととなった。 こうして、カルナータカ太守とマイソール王国の2大勢力が制圧された結果、19世紀初頭の南インドはイギリスの支配するマドラス管区と、マイソール藩王国、トラヴァンコール藩王国、コーチン藩王国などイギリスの保護国などによって形成されるに至った。 1801年以降、アズィーム・ウッダウラとその家族は年金生活者として暮らすことを余儀なくされたが、そのあてがわれていた年金もその孫グラーム・ムハンマド・ガウス・ハーンが1855年10月に死ぬと、「失権の原理」によって停止された。
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