領土の変化
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領土面で最も大きな利益を得たのもイギリスだった。戦争中に占領したジブラルタルとメノルカ島は、そのまま領有を認められた。北アメリカでは、フランスがイギリスのイロコイ連邦に対する宗主権を認め、ノバスコシアの領土と、ニューファンドランドやルパート・ランドの領域に対する請求権を譲渡した。またフランスは、西インド諸島のセントクリストファー(サン・クリストフ)島もイギリスに割譲した。それ以外の、戦争以前から保持していた領域はフランスの手に残った。その中には、当時北アメリカ最大の軍事施設だったルイブール要塞を擁するケープ・ブレトン島も含まれていた。 スペイン領ネーデルラント(英語版)をめぐっては、フランス領のイーペルやフュルヌとともにオーストリアに割譲されることになった。しかしオーストリアとカール6世はあくまでもスペイン王位を求める立場から戦争を続行し、ユトレヒト条約に調印しなかったため、講和がまとまるまでは暫定的にオランダの管理下に置かれることになった。プロイセンは上ヘルダーラントを獲得する一方で、南仏のオレンジ公領の請求権をナッサウ=ディーツ家のウィレムと共に放棄することになった。ただしプロイセン王はオレンジ公を名乗ることを認められたため、ウィレムとプロイセンの間に禍根が残った。 イタリア半島でもスペイン領の分割が行われた。サヴォイアはスペイン領だったシチリアを獲得し、それまでの公国から王国への昇格を認められた。またフェリペ5世に嗣子が無いときはサヴォイア家がスペイン王位を継承し、逆にサヴォイアで公が絶えた時にはスペインに統合されることが定められた。オーストリアはナポリ、サルデーニャ、ミラノなどを獲得した。 ポルトガル・フランス間の条約ではフランス・スペインがアマゾンからオヤポク川(英語版)までの領域(現ブラジル)における主権を放棄し、ポルトガルの主権が及ぶ範囲であると認めた。またフランスはかねてより求めていたアマゾン川の自由航行権を諦めた。1703年のメシュエン条約でポルトガルからの利益を受けていたイギリスは、ポルトガルの受益も後押ししていた。スペイン領ブエノスアイレス(現アルゼンチン領)の対岸にあるコロニア・デル・サクラメント(現ウルグアイ領)がスペインからポルトガル領ブラジルに譲渡され、イギリスはここを新大陸への更なる進出の手掛かりとした。
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領土の変化
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ドイツ帝国の領土は現在のドイツ連邦共和国領の他に、ポーランド、フランス、デンマーク等にもまたがっていた。 現在統治する国家地域名領域 フランス アルザス=ロレーヌ バ=ラン県、オー=ラン県およびモゼル県 ベルギー オイペン=マルメディ (en) オイペン、マルメディの二つの町とアメル、ビューリンゲン、ブルク=ロイラント、ビュートゲンバッハ (en) 、ケルミス、ロンツェン (en) 、ラアーレン (en) 、ウェーム (eu) およびザンクト・フィート(全てリエージュ州の一部) オランダ ダイフェルスベルグ (en) 第二次世界大戦後にオランダによって併合された無人の丘と周辺の土地 デンマーク 北シュレースヴィヒ地方 Hviding、Roage (da:Roager) 、Spandetを含めたスナユラン県(Taps (da:Taps) 、Hejle (da:Hejle) 、Vejstrup (da:Vejstrup) を除く) チェコ フルチーン地方 (en) シレジアのチェコとポーランドの国境に位置し、第二次世界大戦後はほとんどのドイツ人が強制送還された。戦後チェコスロバキア共産党によって成立したチェコスロバキア社会主義共和国が統治した。ビロード革命、ビロード離婚を経て現在はチェコが統治している リトアニア クライペダ地方 (en) 第二次世界大戦後、リトアニア・ソビエト社会主義共和国へ編入され、ドイツ人が強制送還された。ソビエト連邦の崩壊後はリトアニアが統治している。 ポーランド 西プロイセン、ポズナン県(1921–1939) (en) 地域、シレジア全土、ノイマルク (en) 、ヴァルミア、マスリア (en) 、南方東プロイセン、中央および東部ポメラニア州 (en) 第一次世界大戦後に、ポズナン県地域、西プロイセン、上シレジアの一部地域が新しく1918年に独立したポーランド第二共和国へ割譲され、第二次世界大戦後はソ連の影響下へ置かれたポーランド人民共和国へその他地域が割譲された。ポーランド民主化運動後、ポーランド共和国が統治している。 ロシア 北部東プロイセン ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の飛地として統治された。ソ連崩壊後はロシア連邦がカリーニングラード州として統治している。
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領土の変化
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「オレゴン・カントリー」の記事における「領土の変化」の解説
オレゴン・カントリーはもともと、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア、スペインが領有を主張した。合衆国は、1792年のロバート・グレイ(英語版)のコロンビア川の発見とルイス=クラークの探険に基づいて主張した。イギリスは自国のコロンビア川の探険に基づき主張した。スペインの主張は、彼らが18世紀後半に太平洋岸を探険していた事実に基づいた。ロシアの主張は、アラスカからオレゴンにまで広がっていた入植地に基づいた。フランスとスペインは、両国の西部の、18世紀の北緯42度線沿いの領土の主張を分割していた。七年戦争の終結でのフランスの敗北で、フランスの主張は事実上終了した。スペインは、ヌートカ危機(英語版)後の1790年のヌートカ会議(英語版)と、合衆国に北緯42度以北の領地のすべての主張の放棄を規定した1819年のアダムズ=オニス条約で、その主張を少しずつ諦めた。ロシアは1824年の合衆国との条約と1825年のイギリスとのそれぞれの条約で主張を諦めた。 その間に、合衆国とイギリスは1818年のアングロ=アメリカン会議(英語版)で、北緯49度に沿って西のロッキー山脈までの領地の両国の境界を延長する事を協議した。両国は、ロッキー山脈の西から太平洋までの土地を、「共同の占有」をすることで合意した。 1840年代初め、一部のオレゴン住民が、3名の行政機関と一人の最高行政官で臨時の共和国を創設した事を主張した。オレゴンの政治家のある派閥が、独立した国家としてオレゴンの政治的な発展を続けることを望んだのだが、合衆国の加入への圧力は1848年までには広く行き渡っていた。
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