領土と国境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/21 05:12 UTC 版)
国境線の長さ(河川国境を含む)国長さスロベニア 667.8km ハンガリー 355.5km セルビア 317.6km ボスニア・ヘルツェゴビナ 1011.4km モンテネグロ 22.6km 合計2374.9km クロアチアの面積は56594km2であり、これは世界で127番目の面積である(2015年)。 クロアチアの位置する地域は、中央ヨーロッパ及び南東ヨーロッパの一部、バルカン半島の一部、もしくはミッテルオイローパ(英語版)の一部として定義される。領土の大半は北緯42度から47度、東経13度から20度に位置する。 国境線は、東はボスニア・ヘルツェゴビナ(1009.1km)とセルビア(317.6km)に、西はスロベニア(667.8km)に、北はハンガリー(355.5km)に、南はモンテネグロ(22.6km)との間に引かれる他、アドリア海に面している。アドリア海沿岸南端のドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡はボスニア・ヘルツェゴビナ領のネウムによって分断され、南側が飛地となっている。 ハンガリーとの国境は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代から継続したものである。国境線の大半はドラーヴァ川と過去にその河床であった部分で、中世から続く国境となっている。メジムリェ郡からオシエク=バラニャ郡へ至る国境線は、1920年のトリアノン条約によって画定されたハンガリー王国とセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後にユーゴスラビア王国)の国境に由来する。 ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロとの国境の外形は、クロアチア・トルコ百年戦争(英語版)でのオスマン帝国による侵攻と、その反攻となった大トルコ戦争を終結させたカルロヴィッツ条約、第5次(英語版)及び第7次トルコ・ヴェネツィア戦争(英語版)の結果に由来する。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する各国の国境線は、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議が1943年と1945年の会合で決定した連邦の構成に従って1947年に調整が行われた。これによりメジムリェ、バラニャがクロアチアに帰属した他、セルビアとの国境としてドラーヴァ川のドナウ川への合流地点からスレムに位置するドナウ川に面したイロクまでのドナウ川と、スレム地域にセルビアとの国境が画定された。ドラーヴァ川からイロクに至る国境は、1918年まで存在したクロアチア=スラヴォニア王国(英語版)とバスコ=ボドロスカ伯爵領(英語版)の境界に一致している。 スロベニアとの国境の大半も、会合により決定された。クロアチア=スラヴォニア王国の北西部の国境に一致し、これに加えてイタリア王国時代の民族分布に従ってイストリア半島北部に新たな国境線が引かれた。 イストリア半島は1947年のイタリア平和条約(英語版)により、ツレス島、パラグルジャ、ラストヴォ島(英語版)、ザダル、リエカと共にイタリアからその大部分を割譲させたが、一部はトリエステ自由地域として帰属未定となった。1954年、トリエステを含む北部はイタリアの統治下となり、南部がユーゴスラビアの統治下となった。これは1975年のオージモ条約で確定し、南部は主として民族構成によってスロベニアとクロアチアの間で分割された。 19世紀末、オーストリア=ハンガリー帝国は測地網(英語版)を構築したが、アドリア海を基準とする海抜(英語版)を算出するにあたり、アドリア海の平均海水面としてトリエステのサルトリオ埠頭のものが用いられた。この数値はオーストリア、ユーゴスラビア、クロアチアを含むユーゴスラビア解体後の各国に引き続き使用されている。
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