トリエステ自由地域
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トリエステ自由地域(トリエステじゆうちいき、イタリア語: Territorio libero di Trieste、スロベニア語: Svobodno tržaško ozemlje、クロアチア語: Slobodni teritorij Trsta)は、第二次世界大戦後の1947年、中央ヨーロッパにおける戦略的要衝であったトリエステ地域の帰属問題をとりあえず棚上げするために設置された地域である。イタリアとユーゴスラビアの間に所在し、トリエステ市を含む北部地域(A地区)と、イストリア半島の一部を含む南部地域(B地区)で構成されていた。
- ^ Slovenia wins battle with Croatia over high seas access BBC News (2017年6月29日)
- ^ イタリアは1997年10月、スロベニアは2007年1月、クロアチアは2023年1月にシェンゲン協定を施行
- ^ イタリアは1997年1月(原加盟国)、スロベニアは2007年1月、クロアチアは2023年1月にユーロを導入
- 1 トリエステ自由地域とは
- 2 トリエステ自由地域の概要
- 3 歴史
- 4 関連項目
トリエステ自由地域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:27 UTC 版)
「トリエステ自由地域」も参照 第二次世界大戦後、イタリアとユーゴスラビアの間で、トリエステとその周辺地域(ヴェネツィア・ジュリア)がどちらに帰属するかの紛争が発生した。重要な港湾都市であるトリエステは、戦後の東西対立の前線となった。1946年3月に、前イギリス首相チャーチルがアメリカ合衆国で行った「鉄のカーテン」演説(フルトン演説)は、のちに冷戦と呼ばれる緊張状態のはじまりを表現したものとして知られているが、この都市の名が次のように言及されている。 「 バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。 」 1947年2月、トリエステとその周辺地域の領土問題は棚上げされ、トリエステ自由地域として国際連合管理下に置くこととされた。自由地域内は「モーガン・ライン(モーガン線)」で分割され、北部のZone Aは連合国側が、南部のZone Bはユーゴスラビアが分割占領することが決められた。トリエステ市はZone Aに含まれた。 1947年から1954年にかけて、Zone Aは連合国側軍事政府(アメリカ=イギリス連合軍)が統治した。Zone Bは、おおよそムッジャからカポディストリア(現在のコペル)までの海岸線からなるユーゴ領イストリアに含まれていた。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の指導者チトーは、数度にわたって Zone A に侵攻し、トリエステ市の管理を米英軍から無理矢理奪おうとした。これらの今や忘れ去られた小衝突は、冷戦時代のごく初期の戦いであった。
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