トリエステ時代
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「レオノール・フィニ」の記事における「トリエステ時代」の解説
ブエノスアイレスにてドイツ、スロヴェニア、ヴェネツィアの血をひくトリエステ出身の母とスペインとイタリアの血をひくアルゼンチン人の父との間に生まれた。レオノールが1歳の誕生日を迎える前に母は夫のもとを去り、現イタリアのトリエステにある実家に娘を連れて帰った。レオノールの父はあらゆる手段を講じて彼女を取り戻そうとし、誘拐までも試みた。レオノールを守るため一時期一家はフリウーリ地方の小村に避難し、家族全員が変装して身を隠した。レオノールは少年に変装させられた。父親と母親の家族の間で幼いレオノールを巡って裁判による戦いが繰り広げられた。母の実家ブラウン家の長男である伯父は進歩主義的弁護士であり、作家イタロ・ズヴェーヴォや詩人ウンベルト・サーバの友人であり、トリエステで『ユリシーズ』執筆中のジェイムズ・ジョイスとも知己であった。当時オーストリア=ハンガリー帝国の港町として繁栄した自由な雰囲気の国際都市トリエステは、むしろ文化的にはドイツ・ロマン派の影響の強い中央ヨーロッパ圏に属していた。レオノールは、そうした環境で強い自己意識と感受性を持つ早熟な少女に育ち、イタリアの中でもいち早くトリエステで紹介されていたフロイトの著作も読んでいたという。幼い時から絵が好きでスケッチや落書きに熱中し、アール・ブリュット的な試みも行っているが、短期間エドモンド・パッサウロに手ほどきを受けた他は専門の美術教育は受けていない。17歳頃から油絵を描き始め、1924年には友人アルトゥーロ・ナタンらとトリエステでグループ展に参加する。そこでミラノ在住のある大臣の家族の肖像を描くという初めての注文を受けた。
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トリエステ時代(1904年 - 1915年)
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「ジェイムズ・ジョイス」の記事における「トリエステ時代(1904年 - 1915年)」の解説
ジョイスはノラと自発的亡命に入り、まずチューリッヒへ移住してイギリスのエージェントを通してベルリッツ語学学校で英語教師の職を得た。このエージェントは詐欺に遭っていたことが判明したが、校長はジョイスをトリエステ(第一次世界大戦後にイタリア領となるが、当時はオーストリア・ハンガリー帝国領だった)へ派遣した。トリエステへ行っても職を得られないことが明らかとなったが、ベルリッツのトリエステ校校長の取り計らいにより、1904年10月からオーストリア・ハンガリー帝国領プーラ(のちのクロアチア領)で教職に就くこととなった。 1905年3月、オーストリアでスパイ組織が摘発されてすべての外国人が追放されることになったためプーラを離れざるをえず、再び校長の助けによりトリエステへ戻って英語教師の仕事を始め、その後の10年の大半を同地で過ごすこととなる。同年7月にはノラが最初の子供ジョルジオ(1905〜76)を産んでいる。ジョイスはやがて弟のスタニスロース(1884〜1955)を呼び寄せ、同じくトリエステ校の教師としての地位を確保してやった。ダブリンでの単調な仕事よりも面白かろうというのが表向きの理由であったが、家計を支えるためにはもう一人稼ぎ手が欲しいからというのが本音であった。兄弟の間では主にジョイスの浪費癖と飲酒癖をめぐって衝突が絶えなかった。この年の12月、ロンドンの出版社に『ダブリン市民』の中の12編を送っているが出版は拒否された。 やがて放浪癖が昂じてトリエステでの生活に嫌気がさしたジョイスは、1906年7月にローマへ移住して銀行の通信係として勤めはじめる。『ユリシーズ』の構想を(短編として)練りはじめたり『ダブリン市民』の掉尾を飾る短編「死者たち」の執筆を開始したのもローマ滞在中のことである。しかしローマがまったく好きになることができずに1907年3月にはトリエステへ帰ることとなった。この年の7月には娘ルチア(1907〜82)が誕生している。執筆に関しては、同年5月に詩集『室内楽』("Chamber Music")を出版したほか、「死者たち」("The Dead")を脱稿し、『芸術家の肖像』を改題した自伝的小説『スティーヴン・ヒーロー』を、『若き芸術家の肖像』("A Portrait of the Artist as a Young Man")として再度改稿へ着手している。 1909年の7月にジョイスは息子ジョルジオを連れてダブリンへ帰省した。父に孫の顔を見せることと、『ダブリン市民』の出版準備とがその目的である。8月にはモーンセル社と出版契約を結び、ゴールウェイに住むノラの家族との初対面も成功裏に済ませることが出来た。トリエステへ帰る準備をしながら、ジョイスはノラの家事の手伝いとして自分の妹エヴァを連れて帰ることに決めた。トリエステへ戻って一月後、ダブリンで最初の映画館「ヴォルタ座」を設立するため再度故郷へ帰る。この事業が軌道に乗った1910年1月、もう一人の妹アイリーンを連れてトリエステに戻る(ただし映画館はジョイスの不在中にあっけなく倒産してしまう)。エヴァはホームシックにより数年でダブリンへ戻ってしまうが、アイリーンはその後の生涯を大陸で過ごし、チェコの銀行員と結婚した。 1912年6月、『ダブリン市民』について収録作の一部削除などの注文をつけてきたモーンセル社の発行人ジョージ・ロバーツと決着をつけるため再びダブリンへ舞い戻る。しかし意見の相違から両者は決裂し、3年越しの出版契約は白紙化されることとなってしまう。落胆したジョイスはロバーツにあてつけた風刺詩「火口からのガス」("Gas from a Burner")を書いてダブリンを離れる。そしてこれがジョイスにとって最後のアイルランド行となった。父親の求めや親しいイェイツの招待を受けても、ロンドンより先に足を向けることは二度となかった。 この期間、ジョイスはダブリンへ戻って映画館主になろうと試みるほか、計画倒れに終わったもののアイルランド産ツイードをトリエステへ輸入するなどさまざまな金策を立てている。ジョイスに協力した専門家たちは彼が一文無しにならずにすむよう力を貸した。当時のジョイスはもっぱら教師職によって収入を得ており、昼間はベルリッツ校やトリエステ大学(この当時は高等商業学校)の講師として、夜は家庭教師として教鞭を振るった。こうして教師職をかけもちしていたころに生徒として知り合った知人は、ジョイスが1915年にオーストリア・ハンガリー帝国を離れてスイスへ行こうとして問題に直面したさいに大きな助力となった。 トリエステでの個人教師時代の生徒の一人には、イタロ・ズヴェーヴォのペンネームで知られる作家アーロン・エットーレ・シュミッツがいる。二人は1907年に出会い、友人としてだけでなく互いの批評家として長い交友関係をもつこととなった。ズヴェーヴォはジョイスに『若き芸術家の肖像』の執筆を勧め励ましただけでなく、『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームの主要なモデルとなっており、同作中のユダヤ人の信仰に関する記述の多くは、ユダヤ人であるズヴェーヴォがジョイスから質問を受けて教示したものである。ジョイスが眼疾に悩みはじめることとなったのもトリエステでのことである。この病は晩年のジョイスに十数度にわたる手術を強いるほど深刻なものであった。
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