トリエステ時代とは? わかりやすく解説

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トリエステ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 17:14 UTC 版)

レオノール・フィニ」の記事における「トリエステ時代」の解説

ブエノスアイレスにてドイツスロヴェニアヴェネツィアの血をひくトリエステ出身の母とスペインイタリアの血をひくアルゼンチン人の父との間に生まれたレオノール1歳誕生日迎え前に母は夫のもとを去り、現イタリアトリエステにある実家に娘を連れて帰ったレオノールの父はあらゆる手段講じて彼女を取り戻そうとし、誘拐までも試みたレオノールを守るため一時期一家フリウーリ地方小村避難し家族全員変装して身を隠したレオノール少年変装させられた。父親母親家族の間で幼いレオノール巡って裁判による戦い繰り広げられた。母の実家ブラウン家の長男である伯父進歩主義弁護士であり、作家イタロ・ズヴェーヴォ詩人ウンベルト・サーバ友人であり、トリエステで『ユリシーズ執筆中のジェイムズ・ジョイスとも知己であった当時オーストリア=ハンガリー帝国港町として繁栄した自由な雰囲気国際都市トリエステは、むしろ文化的にはドイツ・ロマン派の影響の強い中央ヨーロッパ圏に属していた。レオノールは、そうした環境で強い自己意識感受性を持つ早熟な少女育ちイタリア中でもいち早くトリエステ紹介されていたフロイト著作読んでいたという。幼い時から絵が好きでスケッチ落書き熱中しアール・ブリュット的な試み行っているが、短期間エドモンド・パッサウロに手ほどき受けた他は専門美術教育受けていない。17歳頃から油絵描き始め1924年には友人アルトゥーロ・ナタンらとトリエステグループ展に参加する。そこでミラノ在住のある大臣の家族の肖像を描くという初めての注文受けた

※この「トリエステ時代」の解説は、「レオノール・フィニ」の解説の一部です。
「トリエステ時代」を含む「レオノール・フィニ」の記事については、「レオノール・フィニ」の概要を参照ください。


トリエステ時代(1904年 - 1915年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 01:42 UTC 版)

ジェイムズ・ジョイス」の記事における「トリエステ時代(1904年 - 1915年)」の解説

ジョイスノラ自発的亡命入り、まずチューリッヒ移住してイギリスエージェント通してベルリッツ語学学校英語教師の職を得た。このエージェント詐欺遭っていたことが判明したが、校長ジョイストリエステ第一次世界大戦後イタリア領となるが、当時オーストリア・ハンガリー帝国領だった)へ派遣したトリエステ行っても職を得られないことが明らかとなったが、ベルリッツトリエステ校長取り計らいにより、1904年10月からオーストリア・ハンガリー帝国プーラ(のちのクロアチア領)で教職に就くこととなった1905年3月オーストリアでスパイ組織摘発されすべての外国人追放されることになったためプーラ離れざるをえず、再び校長助けによりトリエステ戻って英語教師仕事始めその後10年大半同地で過ごすこととなる。同年7月にはノラ最初の子ジョルジオ(1905〜76)を産んでいる。ジョイスはやがて弟のスタニスロース(1884〜1955)を呼び寄せ同じくトリエステ校の教師として地位確保してやった。ダブリンでの単調な仕事よりも面白かろうというのが表向き理由であったが、家計支えるためにはもう一人稼ぎ手欲しいからというのが本音であった兄弟の間では主にジョイス浪費癖飲酒癖をめぐって衝突絶えなかった。この年12月ロンドン出版社に『ダブリン市民』の中の12編を送っているが出版拒否された。 やがて放浪癖が昂じてトリエステでの生活に嫌気がさしたジョイスは、1906年7月ローマへ移住して銀行通信係として勤めはじめる。『ユリシーズ』の構想を(短編として)練りはじめたり『ダブリン市民』の掉尾を飾る短編「死者たち」執筆開始したのもローマ滞在中のことである。しかしローマがまったく好きになることができずに1907年3月にはトリエステ帰ることとなったこの年7月には娘ルチア(1907〜82)が誕生している。執筆に関しては、同年5月詩集室内楽』("Chamber Music")を出版したほか、「死者たち」("The Dead")を脱稿し、『芸術家肖像』を改題した自伝的小説『スティーヴン・ヒーロー』を、『若き芸術家の肖像』("A Portrait of the Artist as a Young Man")として再度改稿着手している。 1909年7月ジョイス息子ジョルジオ連れてダブリン帰省した。父に孫の顔を見せることと、『ダブリン市民』の出版準備とがその目的である。8月にはモーンセル社と出版契約を結び、ゴールウェイに住むノラ家族との初対面成功裏済ませることが出来たトリエステ帰る準備しながらジョイスノラ家事の手伝いとして自分の妹エヴァ連れて帰ることに決めたトリエステ戻って一月後、ダブリン最初映画館ヴォルタ座」を設立するため再度故郷へ帰る。この事業軌道に乗った1910年1月もう一人の妹アイリーン連れてトリエステに戻る(ただし映画館ジョイス不在中にあっけなく倒産してしまう)。エヴァホームシックにより数年ダブリン戻ってしまうが、アイリーンその後の生涯大陸過ごしチェコ銀行員結婚した1912年6月、『ダブリン市民』について収録作一部削除などの注文をつけてきたモーンセル社の発行人ジョージ・ロバーツと決着をつけるため再びダブリン舞い戻る。しかし意見の相違から両者決裂し3年越し出版契約白紙化されることとなってしまう。落胆したジョイスロバーツあてつけた風刺詩火口からのガス」("Gas from a Burner")を書いてダブリン離れる。そしてこれがジョイスにとって最後アイルランドとなった父親求め親しイェイツ招待受けても、ロンドンより先に足を向けることは二度となかった。 この期間、ジョイスダブリン戻って映画館主になろうと試みるほか、計画倒れ終わったもののアイルランドツイードトリエステ輸入するなどさまざまな金策立てている。ジョイス協力した専門家たちは彼が一文無しにならずにすむよう力を貸した当時ジョイスもっぱら教師職によって収入得ており、昼間ベルリッツ校やトリエステ大学(この当時高等商業学校)の講師として、夜は家庭教師として教鞭振るった。こうして教師職をかけもちしていたころに生徒として知り合った知人は、ジョイス1915年オーストリア・ハンガリー帝国離れてスイス行こうとして問題直面したさいに大きな助力となったトリエステでの個人教師時代生徒一人には、イタロ・ズヴェーヴォペンネーム知られる作家アーロン・エットーレ・シュミッツがいる。二人1907年出会い友人としてだけでなく互い批評家として長い交友関係をもつこととなったズヴェーヴォジョイスに『若き芸術家の肖像』の執筆勧め励ましただけでなく、『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームの主要なモデルとなっており、同作中のユダヤ人信仰に関する記述多くは、ユダヤ人であるズヴェーヴォジョイスから質問受けて教示したものである。ジョイス眼疾悩みはじめることとなったのもトリエステでのことである。この病は晩年ジョイス十数度にわたる手術を強いるほど深刻なものであった

※この「トリエステ時代(1904年 - 1915年)」の解説は、「ジェイムズ・ジョイス」の解説の一部です。
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